笑い


バレンタイン

二年生の時のバレンタインは、まるもとまるもの家で一緒にチョコ作りをした。
何を作ったかは何一つ覚えていない。
ただ、スティッチのバレンタイン用の箱とマグネットシールをまるもとおそろいで買って、その箱にチョコを入れて渡したことは覚えている。

メールアドレスすら交換してもらえない状態でよくチョコを渡せたなと今では思う。
私がYにチョコを渡したのは帰りの電車を待つホームだった(と思う)が、その時間にKはいなく、まるもも今日は渡せないかもと落ち込んでいたので、「ここでKが来るのを待とう」と提案した。

ホームのベンチでKを待つ間、Kと同じ部活の先輩(♂)が隣に座ってきて、私たちが何本も電車を逃している間もずっと座っていたので、私たちの中で「我々からチョコを貰うのを待っているのでは」と憶測されていた。
その後しばらくしてKがホームにやってきて、同じ電車に乗った際も隣の先輩はここぞと動き電車に乗ったため「やはりチョコを待っているのでは」とざわついたが、その人はずっと本を読んでいたため、ベンチを動かない私たちを見て本当に電車が来ていたことに気づかなかっただけなのかもしれない。
そしてその日まるもは無事Kにチョコを渡せたのだった。

その後、Kがまるもに何かを返していたかは覚えていないが、Yは律儀にホワイトデーのお返しをくれた。
完全に不審者だった私は何も期待せず、チョコを渡した時点でもう終わりにしようとも思っていたくらいだった。
ホワイトデーの日、私たちは放課後にKとYを追うこともなく完全に二人の世界で塾に向かっていた。
塾のある駅に着いた時、ホームからエスカレーターを上がるとそこにYが立っていた。
ホームから改札に上がるエスカレーターや階段、エレベーターはいくつかあったのに、私たちが降りる駅とその場所をYが覚えていたことに驚いた。
私はYが私を待っているとは思わなかったのでそのまま素通りして改札に向かった。
しかしYは私に用があったのでそのまま私を追いかけ「これ、ホワイトデーのお返し」と袋を一つ私に渡し帰っていった。

私はあまりの驚きにありがとうの一言し言えずフリーズをしてしまった。
塾でその中身を見ると、私がスティッチの箱にチョコを入れたからか、ホワイトデー仕様の可愛らしいスティッチのペンとお菓子が入っていた。
私は嬉しくて、しばらくそのペンを展示物のように透明の箱ケースに固定し飾っていた。今も実家の引き出しのどこかにはあるはず。


三人目

まるもとも共通して仲良くしていた子がもう一人いた。
同じバドミントン部で、帰る方向が同じだった子だ。

よく乗り換えた先の電車で二人になると、恋バナをして帰っていた。
私がYを好きなことをはっきり伝えた数少ない相手の一人である。
その子には兄が数名いて、その一人がこの中学校に通っていたため、その子もこの学校に入ったという。ここにもいた、兄妹入学。

その子は一つ上のサッカー部の先輩に恋をしていた。
兄がサッカー部で知り合いだったことを理由にメアドを交換しメールを続けていたが、とても好意のある対応ではないと私でも感じるほど塩対応をされていた。

私やまるもも塩対応され仲間だったこともあり、私たちはさらに仲を深め、その子にも塾に通わない?と誘い、三人で塾に通うようになった。
個別の塾ではあったけれど、塾では三人共通して同じ先生に見てもらえることになり、先生の通う大学の文化祭にもみんなで遊びに行ったりした。
塾の話はまた別記事で。

私は、その子と仲良くなり、初めて少女漫画というものを読んだ。
それが「砂時計」という漫画。
今まであまりテレビや漫画に触れてこない生活をしていたし、読んだことのある漫画はテニスの王子様とNARUTOくらいだった。

その子に借りた砂時計を、私はえらく気に入った。
既に完結済みだったこともあり、返した後自分で全巻買い揃えるほどに。

今でも時々読み返すが、やっぱり好きだなあと思う。
大学生の頃、先輩に砂時計とか好きでしたって話をした時「あぁ、好きそう。」と言われたけれど、その先輩的にはあまり暗い要素なくポップな展開でのハッピーエンドが好きなようだった。
何となく、先輩から見た私には陰があるんだなと思った。


三年生へ

ホワイトデーの次の日は卒業式で、大好きな先輩が卒業し、私は先輩からリボンをもらうことに成功した。
ここで深めた仲は変わることがないと信じていたが、私は高校も外に出てしまい、結局先輩とはこの時以来会ってもいない。
昔SNSでギャルになっていた写真を見た気がする。

そしてそのまま春休みに入り、また新しい春が来て、ついに最後の一年の三年生になった。

三年生になってから、なんとなく全体的に最後の一年だし今を大事にしよう的な空気が濃くなり、今までいがみ合っていた女子ソフト部の子たちとも仲が良くなった。

一年生の時にシャトルランで一騎討ちになった子は、卒業前にその子の恋バナを聞く仲にもなり、既に高等部に行ってしまっているが野球部の先輩のことが好きで、過去にもらったネックレスを毎日こっそり付けているのだと嬉しそうに教えてくれた。
仲良くなるととても社交的で付き合いやすい子だった。
それは多分今も健在で、SNSのどの写真を見てもたくさんの仲間の中で眩しい笑顔で写っている。
今では少しそれが羨ましい。


Yも、今までより心を開いてくれた感があり、もう一度メアドを聞いてみたところ普通に教えてくれて、しばらくメールを続けていた。
Yは私のことは特別好きではなかったけれど、友達にはなろうとしてくれたらしい。


再会できず

毎年、学習旅行でどこかしらに遠征してたが、三年生では学習というより思い出作りみたいな感じで普通に楽しい旅行が待っていた。

私の学校にはオーストラリアに姉妹校があり、私が二年生の時にその姉妹校の子が交換留学という形で来ていた。
実は私もホストファミリーとして一人の女の子を受け入れていて、その期間はうちにまるもも呼んで3人で登下校をしていた。

色白で、髪の毛も綺麗なブロンドをした美しい子だった。
拙い英語でなんとか毎日会話をしていたが、彼女はその慣れない環境がストレスだったのかもしれない。

だいたい日本から海外へ行くときはホストファミリーの家では自分用の部屋が設けられている気がするが、うちはお客さま用の部屋を用意できなかったので、その子と私、まるもが全員同じ部屋で寝ていた。
せめてその子に一人部屋を用意してあげれていればもう少し伸び伸び過ごせたかなと。

日本の食事が合わなかったのかもしれない...
一緒に撮ったプリクラや花火は楽しんでくれていたようだったが...

その子が帰国する際、来年は私がそっちの学校に行くから会おうねーと約束をした。
メールアドレスも、家の住所も交換ししばらくはメールでやり取りもしていた。

しかし、三年生の夏休み、実際に学校を訪れいざ再会と楽しみにしていたその日、彼女には会えなかった。
うちで過ごした時の写真をアルバムにまとめ渡そうと思っていたが、それも渡せず校長らしき先生が代わりに渡しておくよと言ってくれた。

ホームステイを受け入れた他の子たちが再会を祝しているのを眺め、とても悲しい気持ちになった。涙も溢れてきた。

次の日もその子には会えず、アルバムを預かってくれた先生に聞いても「うーん」と誤魔化されたので、もしかしたら病気か他の学校に転校してしまったのかもしれない。
メールを送ってもアドレスが変わっていたみたいで繋がらず、私の家にホームステイしたことがトラウマになっていたらどうしようと不安になった。

私は修学旅行の実行員的なことも受け持っていたが、あまりの悲しみでまともに笑うこともできず踊るのを楽しみにしていたキャンプファイヤーも憂鬱な状態で参加した。

はじめての海外

私にとってこの旅行は初めての飛行機、初めての海外であった。
最初に悲しい思い出を書いてしまったので旅行が楽しくなかったように思われるが、楽しいこともたくさんあった。

二週間弱の旅行だったので、姉妹校に滞在したのは2日ほど、それ以外は色んな場所を訪れた。
国立公園でワニを釣ったり、水上をフェリーで移動しオペラハウスにも行った。
動物園にも行ったし、とてもロマンチックなサンセットビーチにも行った。
有名な岩場のハイキングもしたし、小学生の時の教訓を活かしサングラスをかけて歩いたが、周りはだれもかけていなかったので集合写真は私だけがヤンキーのように写っていた。

ホテルも綺麗なところに泊まれて、夜中は朝方まで友達と恋バナで盛り上がっていた記憶もある。
空港で自分の英語が通じた嬉しさも覚えているし、そこで買ったコアラのカチューシャを帰りの機内で乗務員さんのお尻に被せて笑っていたことも記憶にある。

そういえば行きの機内はソフト部の子と隣で、消灯後も一緒にゲームをして遊んでいた気がする。


まるもとも、YやKと一緒に写真を撮って思い出として残そうと一緒に写真を撮りに行ったが、これもまた今では黒歴史だねーと笑っている。
私は高校も外に出るし、もうこれを最後にYを追うのはやめようと決めた。

まるもはその後高校生から大学生の間に Kと色々あったようだが、今は職場で知り合った方と結婚し幸せそうに暮らしている。

修学旅行も終わり、夏期講習も終わり、夏休みも終わり、卒業まであと半年となった。
受験勉強もラストスパートというところで、私にまた新たな展開がやってきた。
ちなみに、新たな展開ではないが、美術の才能は皆無だった私だが、三年生から授業が始まった「技術」はなかなかにセンスがあり、木材を切っての工作や金属加工などは先生からも褒められていた。

さて
誰かを追いかけてばかりいたが、私にも言い寄られることがあった。(先輩以外に)
印象的だったのは、私が予鈴の後もごそごそと教室後ろのロッカーから教科書を取り出しているとき、一人の男子が私の横に来て、「あいしって、Yのこと好きなんでしょ?」と聞いてきたこと。
もう一分もしないうちに先生がきて授業が始まるというときに、私がたまたまロッカーに一人だからと、「今がチャンス、いけいけ」みたいな空気が漂っていて、私は「まあうん」みたいにてきとうに答えた気がするが、そのあとその男子は「じゃあ今○○に告られても付き合うのは無理?」と聞いてきた。

お前じゃないんかい、というところにも突っ込みを入れたいし、そのあとその男子はすでに着席していた○○という男子に向かって「だってよー」と大きな声で言った。
全員に丸聞こえじゃねえかというのがもう一つの突っ込み。

ちなみに今がチャンスいけいけと言っていたのは○○。
そういうことを他人に頼むのはどうかと思うが、その後○○はマドンナ(仮名)に惚れられ数カ月ほど付き合っていた。

話を戻すが、修学旅行から帰国し、夏休み明けの学校はさらに思い出作り感が強まり、今までジャニーズやら韓国アイドルやらの話でどのメンバーの方がかっこいいだのくだらない言い争い(遊び)をしていた女子は、「うちらは永久不滅、永遠に仲良し、このメンバーは最強」と毎日のように絆を深めあったし、実際に「永久不滅」と書かれたポスターを教室の後ろに貼っていた。

そんな中、私はクラス委員を一緒にやっていた男子と付き合うことになった。
みんなは祝福してくれていたが、本音は「好きじゃないのに付き合うことにした」というものだった。
その男子はずっとマドンナのことが好きだったはずだが、委員を一緒にやって私と話すようになってから私もいいじゃんと思うようになってくれたらしい。
私は何の感情もなかったが、この思い出作り感の強まった雰囲気と、恋人とはどういうものかを経験しておきたいという理由でお付き合いを承諾した。
メールや電話でのコミュニケーションに加え、映画やボウリング、ゲームセンターなどのデートも重ねたし、手をつないだりもした。

しかし結局私の「好きではない」があまりも露骨に出てしまっていたため、卒業後に「俺のこと好きじゃないでしょ、別れよう」と言わせてしまった。
自分からなんと切り出していいかわからなかったので正直「ありがとう」という気持ちでいっぱいになったし、その時好きという感情がない段階で人と付き合うのはやめようと心に決めた。


「笑」

また、夏休み明けにもう一つ新しい出来事が。
それは、私に補講をつけてくれる先生ができたこと。その先生は、私のクラスの授業は受け持っていなかったし、ほとんどかかわりもなく話したことのない先生だったが、受験までの期間、私の面倒をよく見てくれた。
その話はまた別場所で。

秋も深まったころ、再び音楽祭の時期になり、私のクラスは最後の一年ということで今まで以上に練習に熱が入っていた。
私は相変わらず音痴なのでなんの戦力でもないが、クラス全体ではみんなで手を繋いで練習したりしちゃったりして、青いなあって。

結果、この時も私のクラスは金賞をとり、三連覇ということになった。
三年生だからか、この年は音楽祭が終了した後にみんなで打ち上げに行った、サイゼリヤに。
今まで溝があった男女の仲もだいぶ良くなり、みんなで喜びを分かち合った。

そのまま年末に入り、年が明けた。
書初めではないが、なぜか習字の時間ではなく現代文の時間に半紙に三年間の思い出を一文字で表してくださいみたいな課題が出され、私は迷うことなく「笑」と書いた。

これは、私がほぼ三年間毎日クラスメイト(女子)と休み時間や給食の時間に笑ってすごした時間がなによりも好きで、大切でした、という意味を込めてのものだった。
実際に本当にお腹が痛いほど毎日笑っていたし、この時間が永遠に続けばいいのにと卒業文集にも書いたほど。


その字を見た現代文の先生が「字も笑っているし、(本当に毎日うるさく笑っていたお前に)よく似合った字だ」と言ってくれたことはまだ覚えている。
その先生は数年前に亡くなってしまったのだけど、その時若干皮肉まじりにも私の字をほめてくれたことは忘れないでいたい。



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