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オリジナリティが「ある」とは
「意味が分からない文章」は2種類存在する。一つ目は、支離滅裂で何が言いたいか分からないもの。二つ目は、話し手の論理や視点のレベルが高くて、聞き手が付いて行けないものだ。
二つ目の例を挙げると、高校以降の数学が近い。教科書は論理的に順を追って説明しているし、秀才なクラスメートは理解しているのに、自分だけが理解できずに落ちこぼれる感覚。
二つ目の、話し手の論理や視野が高い場合は理解すると、それまで知らなかった概念を知ることができる。
周りの空間を押し広げていくように、それまで感じなかった温度を感じ、触れなかった壁に触れるようになる。
本質的に「頭が良くなる」とはそういうことだ。
頭が良い人は「分からない」出会った時に、歯応えがあるが栄養がある食材を食べる時のように、ゆっくり噛み砕いて、それによって見渡せる世界の視座を広げる。
逆に頭が悪い人は自分が理解できるものしか読まない。自分の意見を肯定してくれるような、「そうだよね」と膝を打ちたくなるような、耳障りの良い甘言だけを摂取する。
学歴がそれなりに高くて本を習慣的に読んでいる人でも、驚くほど視野が狭くてつまらない人がいるが、彼ら(彼女ら)がなぜ壊滅的につまらないのかと言えば、それは自分の考えを肯定して気持ち良くなるような同質の情報しか摂取していないことが要因であることが多い。
もし、そのような種類の本を読んでいるのにつまらない人間が出来上がる歴史が知りたければ、部屋に訪れる機会があって本棚を見れば答え合わせは簡単にできる。
話を戻そう。
つまり、頭が良い人とは未知の概念を咀嚼して自らの視野を広げる習慣がある人のことだ。各大学が表明しているアカデミック・ポリシーを見れば、大学以降の高等教育が目指している人物像も、およそそのような特徴を持つことが分かる。
(しかしそのような習慣を持つ大学卒業生はかなり上位大学でも西表島以外でイリオモテヤマネコを見かけるくらい少ないが…。弁護するとしたら、そのような大学キャンパス以外で探すよりも見つけやすい。)
これらの教育を受けていなくてもこのような思考の習慣を持っている人のことは、僕は頭が良い人だと思っている。
そのような人が大学を出ていなかったとしても、大卒だと勘違いして話を進めがちである。
そもそも、そんな人の絶対値は少ないので出会うこと自体が滅多にないことだけれど。
卒論は、まさに「未知の概念」を言語化する作業だ。まだ言語化されていない現象を見つけて、統計学だったり、アカデミックライティングだったりの学問の方法論を使って、他の人に理解されるような形で言語化する訓練だ。
しかし、残念ながらそんな能力の巧拙は卒論を書く前に、学部一年生のレポートのレベルでかなり明確に分かる。その人が自分の頭で考える学生かどうかが炙り出されると言い換えてもいい。
学部生のレポートの下読みをしたことが何度かあるが、大学になんとなく入って、単位を取ることだけが目的のレポートは分かる。「とりあえず、これ書いときゃ単位取れるでしょ」という背景の思想が透けるくらいには、3,000文字の期末レポートは長い。
一方で、テーマについて自らの頭で「これが面白い」と独自性のある意見を考えて、それを伝えるために文章と論理で架橋しようとするレポートは段違いに質の良いレポートだ。自分の頭で考えられる人が書くレポートだ。普段から自分の頭で考える習慣がある人のみができる。
(彼ら、彼女らはそれが当たり前だと思っているので、特別な思考をしている自覚はないが)。20年ちょっと積み重ねてきた思考の習慣は、大学で論理的に書く練習を少し積んだだけで覆せない途方もない差だ。
だから、学部1年生の時にオリジナリティに満ち溢れていて面白い視点で着目できる人は、卒論でもその着眼点を発展させて、修論や博論にいくに従ってその独自性を開花させていく。
一方で、「とりあえずレポート書いておくか」という凡庸で紋切り型の誰が書いたか分からない着眼点しかない学部1年のレポートは、彼(彼女)が4年経って卒論になってもつまらない…ことが多い。
なぜなら、学部4年間で学ぶ大半は、統計学とかアカデミックライティングのような「手段」だから。「手段」を使いこなすには、自分のオリジナルな視点や意見があるのが前提だ。
本当にオリジナリティのある意見は、オリジナルだからこそ、そのままでは他の人に伝わらない。だから、論理という武器で他者を説得する手段を学部4年間通して数学やら論理学やらで身につけるのだ。
しかし、それらの手段を通して「何を言いたいか」。ひいては、世界にまだない思想を、どのように生み出していきたいか、という出発点となる種を教える授業は皆無に近い。それは、それまでの学生自身の思考の様式に依っている。
だから共通テストの点数が高い人が、大学院に行くと苦しむことがある。知識を覚えて吐き出すことが得意なのと、オリジナリティのある意見を持っていることは全く別次元の能力だから。
そんなことを、オリジナリティが「ある」側の人と話していて、ふと思ったので忘備録がわりにメモ。おやすみなさい。今日もよく眠れますように。