咲いてしまった化けの花〜「想い」を大切にするゲーム『プロセカ』〜
こんにちは。桜小路いをりです。
先日開催された、『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク』のゲーム内イベント「荊棘の道は何処へ」。
このイベントストーリーで、ついに、「25時、ナイトコードで。(ニーゴ)」のメンバーの暁山瑞希の秘密が、明かされました。
今回の記事は、次のニーゴのイベントが来る前に、ひとまず私の考察と気持ちを書き留めておくための備忘録です。
『プロセカ』をご存じない方には大変不親切な記事になっていて恐縮ですが、知りたい方はこちらの記事の冒頭を読んでから戻ってきていただけますと幸いです。
(普段はメンバー全員に「ちゃん付け」なのですが、読みにくくなりそうなので、今回は呼び捨てで失礼します。余力があれば、心の中で付け足しながらお読みいただけると嬉しいです。)
イベントストーリーについて
イベントストーリーを読んでから、気がつくと、ずっと考えてしまっています。
「ニーゴ」について、そして、『プロセカ』というゲームについて。
正直、私は、もっと単純に終わるものだと思ってしまっていました。
瑞希に秘密があることを察して、それでも「ずっと待ってるから」と言った絵名が、実際に瑞希から打ち明けられて、その秘密を知る。
そして、「私たちの関係性は変わらない」と告げる、とか。
あるいは、ニーゴが全員揃った状態で打ち明けて、奏かまふゆのどちらか、あるいは両方が「ごめん、実は、なんとなく気づいてはいたよ。でも、瑞希は瑞希だから変わらず一緒にいた。これからもそうだよ」とでも言う、とか。
(実際、奏は瑞希の声に対して「私たちとちょっと違う感じがする」というようなことを言っていたこともありました。奏とまふゆは、その辺り鋭そうな気がしていたので。)
でも、そんな安直な作りにはなっていませんでした。
その残酷さ、生々しさが、とてつもないリアリティーで胸に突き刺さってくるような、そんなストーリーでした。
「ニーゴのみんなが、これまでと変わらずに接して“くれる”こと」そのものが耐えられなくて、つらいと話す瑞希の姿に。
それに、何も言い返せない絵名の姿に。
震える言葉に、叫ぶような訴えに、瑞希のいつもより低い声に。
現実は甘くない、侮れない。
生々しくて苦くて、そして何より、逃げられない。
そんなことを、喉元ぎりぎりに突きつけられたような気がします。
この「想い」を、大切にして
同時に、「『プロセカ』は『想い』を大切にするゲームなんだな」と改めて感じました。
もちろん、『プロセカ』は、登場人物たちの想いがバーチャルシンガーたちのいる「セカイ」は作っていて、想いから歌が生まれる、という世界観が大きな魅力ではあります。
だから、瑞希の想いも、切実に鮮烈に描くし、絵名のもどかしさも、瑞希に対する周りの態度も、リアリティーをもって描いている。
でも、それだけではなく、その「受け取り手」、すなわちユーザーの想いも、大切にしてくれていると感じます。
今回のイベントでは、声優さんのアフタートークは開催されず、イベント終了後のバーチャルライブも異例の形で行われました。
それを私は、「自分の中に湧き上がった想いを大切にしてほしい」という『プロセカ』からのメッセージだと解釈しています。
瑞希の行動に、何を想うか。
何を考え、「あなた」は、どう感じるか。
例えば、瑞希はこれまで「逃げる」という選択を取ってきました。
上手く馴染めない環境から逃げて、秘密を打ち明けることから逃げて、でも、その経験によって、まふゆの心をすんでのところで救うことができました。
ただ、「逃げてきた」ことで、思いも寄らない、望んでいない展開を招いてしまって、今、深く後悔して傷ついています。
そこまで見届けて、「逃げる」という選択について、改めてどう思うか。
私の場合は、今回のストーリーでそんなことを考えさせられました。
正直、瑞希に降りかかってきたものはあまりに大きくて、重くて残酷で、ユーザーの間で賛否は分かれるお話だと思います。
でも、そのどれもが、大切な「想い」。
ストーリーを読まなければよかったという後悔があったとしても、苦しくなったとしても。
その全部が、「今」「ここで」「自分の心が」感じているもの。
バーチャルシンガーたちは、ストーリー内でよく「想いを大切に」と言いますが、それはユーザーにも当てはまるのではないでしょうか。
楽曲を聴いて感じたこと、ストーリーを読んで感じたこと、MVを見て感じたこと。
人によってそれぞれな、同じ形はひとつとしてない「想い」を、自分の心の中で大事に抱きしめていてほしいし、育てていってほしい。
嫌悪感も苛立ちも、虚しさも、切なさも、全部「大切な想い」だから。
その「想い」は、ストーリーを読んだ後にまた曲を聴いたら変わるかもしれないし、アフターライブを見たら違う感じ方になるかもしれないし、MVを見たら新しい発見によって180度動くかもしれないから。
あるいは、いつか、様々な人生経験を経た先、何年か越しに、違う形、違う色になるかもしれないから。
私はこれまでも、ひとりのユーザーとして、そしてオリジナルの創作を志す者のひとりとして、『プロセカ』にすごくリスペクトの念を抱いていました。
それが、よりいっそう大きくなったイベントだったと思います。
「成長」と「変化」を目撃していく
瑞希のイベントの書き下ろし曲に、ツミキさんの「キティ」があります。
この曲で印象的なのが、まふゆに対して「逃げ出して!」と叫ぶ歌詞。
イベントストーリーの中では「逃げてもいい」というメッセージを伝えていた瑞希でしたが、曲の中ではより強く、まふゆの想いが殺されてしまう前に「逃げ出して!」と訴えます。
この場合では、結果的に、「逃げる」選択がまふゆの想いを救うことになりました。
しかし、今回のイベントのストーリーを経た瑞希がいつかこの曲を歌うことになったとして、「逃げ出して!」とこのときと同じように強く歌えるのか……。
そう考えると、個人的には疑問が生じます。
「逃げ出すこと」は、確かにまふゆに必要だったけれど、逃げ出すだけでは何も解決しないし始まらない。
ひょっとしたら、辛い展開を引き起こしてしまうかもしれない。
それを身をもって知ってしまった瑞希なら、もっと、(例えば泣きそうな声で歌ったり)違う歌い方をするんじゃないかな、と思ってしまいます。
想いは変化するし、成長する。
だからこそ、その時々の想いを忘れないために、『プロセカ』では「歌」という形で、それを残しておくのではないか。
「想いから生まれた歌」というのは、タイムカプセルのようにその時々の「リアル」を詰め込んだものなのではないか。
私は、そんなことも考えてしまいました。
ぜひ、今回のストーリーを経て、改めて今、「悔やむと書いてミライ」を想い返してみてください。
「悔やむと書いてミライ」は、ニーゴの最初の書き下ろし曲で、提供はまふまふさん。
この曲を「誰もいないセカイ」で、ニーゴのメンバーと、ミクと歌ったことのある、今の瑞希なら。
どんなに打ちひしがれても、つらくても、「消えたい」と思っても、最終的にはまた「向き合ってみよう」と思ってくれるんじゃないかな……と、個人的には願っています。
(この曲の一人称、瑞希と同じ「ボク」なので、つい重ねてしまいます)
「悔やむと書いてミライ」の歌詞、改めて見てみると、ニーゴの世界観の土台のような、ニーゴのメンバーの心にいつまでも響き続けるような言葉が散りばめられているように思います。
瑞希はこれから、もしかしたら一生、「あのとき、もし自分から秘密を打ち明けていたらどうなっていただろう」と悔やむかもしれません。
でも、それを「悔やむことができる」ということは、瑞希がその出来事の「ミライ」を歩んでいる、ということではないでしょうか。
また、ぬゆりさん提供の「ロウワー」では、瑞希はこんなことを歌っていました。
つまり、自分の秘密を伝える前に、自分の秘密の「綻び」が見えたり、そのせいでニーゴメンバーとの関係性が「綻ぶ」前に、自分から出ていってしまおうか、と思っていたんです。
私はこのフレーズに、「悔やむと書いてミライ」にある「夢も見れぬような後悔」という一節を重ねてしまいます。
この「夢も見れぬような後悔」というのは、今回のストーリーに照らしてみると、「もしニーゴのみんなに秘密を打ち明けられていたら、どうなっていただろう……」という夢を見ることのない後悔、という意味に捉えられる気がします。
すなわち、ずっと打ち明けられないまま、その秘密が「綻ぶ前に」ニーゴを去って後悔する、という選択を捨てた。
たとえ後悔したとしても、それで関係性が変わってしまうとしても、打ち明ける方へ向かった。
瑞希は、自分なりに精一杯、ニーゴへの「誠意を尽くした」のではないかと思います。
そう考えると、瑞希の心境の変化、成長も感じられます。
登場人物たちの成長の過程を追い、目撃していくのもまた、「プロセカ」の醍醐味ではないでしょうか。
「化けの花」について
「荊棘の道は何処へ」の書き下ろし曲は、なきそさんの「化けの花」でした。
この「化けの花」というタイトル、個人的にはかなり好きです。
「化けの皮」ではなく、「化けの花」。
瑞希にとって、今の瑞希の姿は、ただ装っていたもの(ファッション)では決してない、というような。
瑞希の在り方は、花のように、自然に、ごく当たり前にあるもの。
そんな暗喩のように思います。
一方で、一度偽ってしまった、抱えてしまった秘密は、最初はつぼみだったとしてもいつか花として咲いてしまう、というやるせなさを引き立てるタイトルでもある気がします。
この曲で印象的なのは、「みーんないなくなれ」「いなくなれ」と繰り返す歌詞の中に最後に交じる「そばにいて」という言葉。
なんだか、「いなくなれ」というフレーズからは、「自分の傍にいても、もう気を遣うだけでしょう」というニュアンスも感じます。
でも、その裏に隠された本音は「そばに居て」。
これは、イベントのアフターライブで瑞希が回想(あるいは夢に見ていた)「君の夜をくれ」にも少し通じる気がします。
(瑞希が今、絶望の中で心の底から欲しているのは、「君の夜をくれ」で描かれているような温かな夜なのかな、とも感じたり。)
また、なきそさんの初音ミクバージョンの「化けの花」では、MVにヒマワリの花が出てきます。
ヒマワリの花言葉の中で、MVに当てはまりそうなのは「あなただけを見つめる」でしょうか。
歌詞に何度も「見ないで」とあるからこそ、ヒマワリの花の迫力を思い出すと胸が詰まります。
イラストでは、女の子を囲むようにヒマワリが咲いていて、全部の花が彼女の方を向いています。
花言葉を鑑みるなら、「監視している」とも捉えられるような。
「自分らしく在る」だけなのに、好奇の目にさらされて、見張られて、陰で嗤われていた。
あるいは、いつ秘密がばれるかと心のどこかで、ニーゴのみんなの目に怯えながら過ごしていた。
どちらの意味にも受け取れます。
ちなみに、MVに出ているヒマワリは7本。
7本のヒマワリを贈る意味は、「ひそかな愛」だそうです。
もしかしたら、瑞希は必死に「見ないで」と訴えているけれど、実際のニーゴのみんなは「ひそかな愛」をもって瑞希を見つめている、という意味かなとも考えたり。
面と向かって口にしてはこなかったけれど、友情だけではない、強い繋がり。
悩んでいるなら力になりたいし、手を差し伸べたい。毎日一緒にひとつの曲を世に出すために作業して、お互いに救い救われ、支え合ってきた、そんな間柄。
それを「ひそかな愛」と呼ばずして何というか……なんて、ちょっと今回のイベントの感想の締めとしては、楽観的すぎるかもしれませんが。
瑞希も、そしてニーゴも、最終的にはきっと灯りを手繰り寄せて、進んでいく。
私は、そんなことを願わずにいられません。
まとめ
『プロセカ』の中でも、ニーゴは特殊なユニットです。
人前に出てパフォーマンスをするユニットではない、インターネットに軸足を置いた活動をしているということも、もちろんありますが。
ニーゴに対する私の個人的な考えではありますが、私たちユーザーはニーゴに対して、どこまでも「傍観者」です。
ひとりの人間が、その人らしく在るために選択する姿を、傍観していく。見届けていく。そんなストーリーになっています。
選択する、というのは、「選ぶ」ことであり「捨てる」ことでもあります。
現実のままならなさを「ままならなさ」のまま、教えてくれる。
ニーゴとは、そんな存在ではないでしょうか。
さて、長い記事になってしまいましたが、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後に、大好きな「ザムザ」のこの歌詞を引用して、終わりにしたいと思います。
光は1時の方角にある
今は尻尾を引き摺りゆけ
ザザザザ ザムザ
だから「現実はもういい」なんて云うなよ ザムザ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。