令和に『劇画・オバQ』を読み直す
『劇画・オバQ』(1973年)は、藤子・F・不二夫による『オバケのQ太郎』(連載開始は1964年)の後日譚であり、読み切りSF漫画の大傑作です。
小学生の大原正太の家に居候にやってきた、大食漢で寝てばかりの間抜けなオバケ、Q太郎が巻き起こす騒動を描いて大人気となった『オバケのQ太郎』。これはその15年後という設定で、大人になった主人公の大原正太やオバQが劇画タッチでリアルに描かれます。
いまや大企業に勤務する多忙なサラリーマンとなった正太は、友人のハカセからベンチャー企業立ち上げに参加するよう勧誘を受けるけれど、今一つ踏ん切りがつきません。
そこへQ太郎が久しぶりに戻ってきます。オバケ学校を卒業し、オバケ銀行へのコネ就職が決まっていたものの、なにかもっと変わったことがやりたくて人間界を再訪したのです。
Q太郎はそのまま正太の家に居候することになります。昔と変わらずご飯を20杯食べたり夜更かししたり大いびきをかいて寝たりするQ太郎に対して、正太の妻は迷惑顔。「毎食20杯でしょ、マンガならお笑いですむけど現実の問題となると深刻よ」という妻のセリフが笑えます。
やがてQ太郎が戻って来た事を知ったゴジラが、キザ夫、よっちゃんといったかつての仲間たちを集めて同窓会を開くことになります。酒に酔って昔話に花が咲く中、皆で無人島に「オバQ王国」を作ったことを思い出し、無邪気な子供時代を懐かしみます。そしてもう夢見る子供ではいられなくなってしまっていることを自覚するのです。
しかし、ハカセだけは違いました。彼だけは熱く夢を追いかけ続けていたのです。ベンチャーに賭ける意気込みを熱く力説するハカセに皆は感応し、酒に酔った勢いで、ハカセの夢に人生を預けることを約束して団結します。「おれたちゃ永遠の子どもだ!」。その瞬間だけ、皆の顔が劇画調の絵から少年マンガの絵に戻ります。
そして翌朝。なんと正太は、妻から妊娠したことを知らされます。すると、昨晩のことなど無かったかのように、これまで以上に頑張って働こうと張り切って会社へと向かうのです。Q太郎には目もくれません。その後姿を見てQ太郎は、正太がもう子供ではなくなったことを悟り、一人静かに街を去るのでした……。
もともとQ太郎というキャラクターは、ドラえもんとは違い、正太を助けるわけでもなければ、なにか有益な能力があるわけでもありません。よく食べよく遊びよく寝るだけの、非生産的で非常識で迷惑な居候です。そのかわり、とにかく喜怒哀楽が豊かでした。泣く、笑う、愛する、怒る……Q太郎は論理や分別とは反対の快楽原則で突き動かされる<永遠の子ども>だったのです。日が暮れても公園に残り、もっと遊ぼうと駄々をこねるわがままな子供。
遊びにはいつか必ず終わりがあり、誰もがサラリーマンという「会社という機械に組み込まれた歯車」になることを宿命づけられている。『劇画オバQ』は、そうした一億総中流時代のほろ苦い教訓、モラトリアムの終わりを描いた成長物語だったのです。短いページ数で、ここまで一億総中流時代の終身雇用の世相と心情を射抜いているのは、見事としかいいようがありません。
あの時代、サラリーマンとなり親となる正太が、圧倒的な(男の)マジョリティだったのです。だからこそ昭和の読者は、もう巻き戻せない時間の流れを思い知り、Q太郎という幼少期のイマジナリー・フレンドとの別れが深く突き刺さったのでしょう。あるいは、サラリーマンではなくフリーランスとして生きる読者は、Q太郎と自分自身を重ねて孤独感・疎外感を投影したことでしょう。
しかし本作は、現代においては少し違う読み方ができるようになります。終身雇用・年功序列が時代遅れとなり、転職や起業、個人事業主が身近なものとなり、さらには結婚しない、結婚しても子供を作らない、そうした生き方が特別なものではなくなりました。もはや定型の働き方は無く、子供と大人の明確な境界も無いのです。そうした令和の時代にあっては、Q太郎やハカセのような<永遠の子ども>であることが特別ではなくなったともいえるのです。
昭和の頃は、「正太がQ太郎を捨てる物語」として読めたものが、今読むと全く逆の「Q太郎が正太を捨てる物語」にも読めるのです。会社や家族に縛られないQ太郎のほうに共感する人のほうが、実は多いのではないでしょうか。ラストシーン、ひとりで空に飛んでいくQ太郎は孤独に見えますが、その先では相変わらず楽しく遊ぶように生きているような気がするのです。
(真実一郎 2024年11月3日)