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昭和の名騎手を漢にした馬 ウイニングチケット〜続 名馬たちの記憶1〜



はじめに


昭和の時代、柴田政人という義理と人情を重きにおいた名騎手をご存知だろうか。

元祖天才 福永洋一元騎手や名手 岡部幸雄元騎手と同期。
騎手黄金世代の1人であり、数々のビックタイトルを手にした。

しかし、
その名騎手も日本ダービーの称号だけは手に出来ず、騎手生活も30年が経った。
身体も悲鳴を上げ、調教師の道も見えてきた。このままダービージョッキーの称号を手に入れられず、終わってしまうのか……。

そんな騎手生活晩年を迎えた柴田は、1頭の漆黒の馬体と出会う。
その馬こそ、ウイニングチケットである。

柴田政人にダービージョッキーという称号をプレゼントするために生まれてきた馬ウイニングチケット。

今回は、義理と人情を大切にした熱き名騎手を漢に導いた彼の記憶を振り返りたい。


期待薄の馬


父は当時、輸入されたばかりの新種牡馬だった欧州チャンピオンのトニービン。
母はパワフルレディ。
母の父マルゼンスキーという血統。
母系はスターロッチから繋がる日本有数の名牝系の1つである。

未知数だったが、欧州チャンピオンとなった父と日本が誇るスターロッチの血統を持つ漆黒の小さな馬体は、1990年3月に産声を上げた。

幼少期を順調に育った彼は、3歳(現2歳)の5月、栗東の名門 伊藤雄二厩舎に入った。
入厩当初、陣営は彼よりも兄に重賞勝ちを持つ同じ3歳馬のニホンピロスコアー(父ゴライタス)に期待していたという。

そんな期待薄など知らない彼は、秋の新馬戦にてデビューするも7番人気で5着とホロ苦いデビュー戦となった。
しかし、
連闘で迎えた2戦目には、初勝利を飾り、良い意味で陣営を裏切った。

ところが、
レース後に発症した蕁麻疹の影響で冬まで休養を余儀なくされる。
彼は、精神面で弱い馬だった。

現役引退をするまで全14回出走しているが、そのうち4回はレース後に精神的ストレスから蕁麻疹を発症させるほど。
それでも一生に一度の大レース日本ダービーを勝ってしまうのだから、レースに出走すれば、精神的ストレスに打ち勝つ潜在能力があったのであろう。

徐々に頭角を現す


休養を挟み12月初旬、1勝クラスの葉牡丹賞、暮れのホープフルステークス(当時はG1ではなくオープンクラス)を連勝。4戦3勝とし、翌年のクラシック戦線に弾みを付けた。

なお、この世代の牡馬クラシックは、後の皐月賞馬ナリタタイシンに菊花賞馬ビワハヤヒデ。この2頭に彼を含めた世代3強、それぞれの頭文字を取ってBNW世代と呼ばれた。

93年のクラシック戦線を賑わせた3頭。
🐴画像tokyo-sports.co.jpより🐴

さて、
年が明け、皐月賞の前哨戦となった弥生賞。ここで好敵手の1頭であったナリタタイシンを退け重賞初制覇。

しかし、
レースを終えた柴田が
「今日は85点、切れがひと息だった」など辛口なコメントを発したため、皐月賞に対する評価が急騰した。


3強対決


その皐月賞では、1番人気に推された彼とビワハヤヒデ、ナリタタイシンの3強が初めて激突。
軍配は、剃刀のような切れ味を魅せたナリタタイシンに挙がる。
連対率パーフェクトのビワハヤヒデが2着。直線失速した彼は4着だった。

皐月賞敗退によりファンを失望させたかに見えた。
ところが、迎えた日本ダービーでも1番人気の支持を得た。
ファンは、鞍上の柴田にダービー初制覇と彼の勝利に期待したに違いない。


漢にした馬


スタート直後、マルチマックス騎乗の南井騎手が落馬するという波乱の幕開けとなった第60回 日本ダービー。
最後の直線、残り50m辺りで柴田と同期で永遠の好敵手、岡部幸雄騎乗のビワハヤヒデが柴田のウイニングチケットに並んだ。

後方から武豊騎乗のナリタタイシンも1馬身差に迫ってきた。
ここで、彼は一世一代の二の脚を魅せる。まさに柴田政人を漢にするが如く。

『先頭はウイニングチケット!ウイニングチケット!ウイニングチケットォォォ!柴田これが念願のダービー制覇!柴田政人勝ちました!』

実況アナがウイニングチケットと叫んだ分だけ、彼は猛追してくる相手よりも前に前にと脚を繰り出すように見えた。
そして、
最後はビワハヤヒデを半馬身差退け、1着でゴールした。

人馬ともに日本ダービーの執念が伝わってくる。🐎画像jra-vanより🐎

実に19回目の日本ダービー挑戦にして悲願の初制覇を果たした柴田は、
「世界のホースマンに第60回目の日本ダービーを勝った柴田ですと伝えたい」
との勝利騎手インタビューは多くのファンに感動と涙を与えた。

ダービーだけに愛された馬

その後、
夏の休養を経て、最後の1冠 菊花賞を取って二冠馬を目指す中でトライアルレース京都新聞杯G2を辛勝。
菊で3強が三度顔を合わせることになった。
しかし、
ビワハヤヒデに5馬身以上を開けられ3着に敗北。
結果的にBNWがそれぞれ冠を分け合う形で1993年のクラシック戦線は終了。

翌年、ライバルのビワハヤヒデがG1を2勝、彼は後手を踏む格好で重賞に善戦するも勝ちきれない日々が続いた。

そして、
落馬事故により負傷していた柴田が28年の騎手生活を終えた、約1ヶ月後、柴田の後を追うようにして競走生活に別れを告げた。
ちょうど、ナリタブライアンが三冠達成を果たした1994年の秋だった。

引退、そして後世まで


第2の馬生に向かった彼は、これといった後継馬を輩出することは出来なかった。
しかし、
昨年の大阪杯G1にて、曾孫のレイパパレ(父ディープインパクト)が勝利したことで母の母の父として、僅かだが血を残している。

あれから約30年が経過したが、
現在も彼は、90年代の日本ダービー馬で唯一生き残り、今年で32歳となった今、曾孫たちの活躍を放牧地で見守っている。

最後に
彼が勝った日本ダービー当日、東京競馬場へ駆けつけたファンは、16万人もいた。昨今のコロナ時代では考えられない数字である。
また、日本ダービーの売上545億は、当時で過去最高売上となったことから、如何に、このBNW世代にファンが多かったのか数字が物語っている。

柴田政人に日本ダービーを勝たせた馬ウイニングチケットは、今もなお人気が衰えることを知らない日本ダービー馬である。


ウイニングチケット
父トニービン
母パワフルレディ
母の父マルゼンスキー
14戦6勝
主な勝鞍 日本ダービー



先日、名馬たちの記憶シリーズを10回目の区切りを迎えました。
ひとえにお読み頂いた皆さんのお陰です。ありがとうございます!

そして、
今回、新たな気持ちで
『続 名馬たちの記憶』として、
第1回を日本ダービー馬としても思入れが深いウイニングチケットを取り上げさせて頂きました。

今後も不定期に投稿する予定です。
皆さんには引き続き、お読み頂ければと思います。

併せて、刊行物『記憶に残る名馬たち』①〜③も絶賛発売中。
kindle unlimitedにて読み放題となっています。
是非とも宜しくお願いします!








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