(音楽)チャーリーヘイデンが好き
演奏家は音と音の狭間になにを感じ、考え、または考えず、指を動かそうとする、あるいは動くままに任せるのだろう。ひとつのノートから次のノートへ。音楽にはテンポがある。けれど、BPMの早い遅いは演奏者にとっては等価であるように思う。ノートとノートの狭間には必ず間がある。その間において、無心であるのか、なにかを思うのか。未熟な演奏者の場合、音を間違えないこと、リズムを外さないことに気を配っているのであろう。卓越した演奏者は身体的に覚えているため、そのような気配りに集中することはないだろう。無邪気な演奏者からは音楽の楽しみが溢れる。しかし、チャーリーヘイデンはどうだろう。
完全に妄想ではある。私にはチャリーヘイデンの音と音の狭間に、「探索」が見え隠れする。どのような音を選ぶかの探索ではない。その音はなんであるか、と問うているような探索。それは、私はなにものであるかという問いのようにも思える。時にどもり、時に戸惑い、確信し、弾く。それは現代詩における、改行のようなものに思える。
1975年に発表されたアルバム、「Closeness Duets」というアルバムがある。4曲が含まれる作品で、1曲目から3曲目まではデュオで構成される。このデュオの部分について偏愛的に書いていく。
1曲目「Ellen David」ピアノ:キースジャレット
冒頭にベースがテーマを一巡する。何度も確かめるようにメロディーが指で叩かれていく。圧倒的な存在を示しつつも、ベースの単音に空間は緊張する。こういった張り詰めた空間に入っていくのはためらわれるのだが、あたかも当たり前のように、スーッとピアノが侵入する。なぜだろう、喜びや嬉しさがドキドキとこみ上げてくる。キースジャレットとの良好な関係が背景にあるのかはわからないが、なんとも自然にデュオが始まる。挨拶もなく。どちらかがリードをとることもなく、互いの関係は対等である。ベースの音の狭間をピアノが雄弁に肯定していく。おまえとは、今のおまえこそが、おまえたらせているというように。空間は互いに肯定し合う演奏者により安定しつつも躍動し、満たされていく。
2曲目「O.C」サックス:オーネットコールマン
ベースが複音を鳴らさないがぎり2音で構成される。テンポも早く、ハーモニーを奏でることはなく、単音と単音がぶつかり合う。空間は張り詰めていく。彼らはどこでブレスをしているのだろうか。ブレスというと歌や、管楽器で重要だというのはご理解いただけると思うが、ベースやピアノ、あらゆる楽器演奏においても重要である。自分の中のリズムが、息を吸い、吐くことでその手を放してしまうことがある。緊張感の途切れというのだろうか。主に呼吸を吸うことは難しい。聴く側も息がつまる。1曲目の互いにイニシアティブを譲り合うのではなく、圧倒的に自己を誇示する姿勢。1秒目から音が止むまで一瞬たりとも音楽の手綱は緩められず、過ぎ去っていく。
3曲目「For Turiya」:ハープ
クレジットに書かれていないが、アリスコルトレーンだと思われる。2曲目からの反作用か、ハープという楽器の特性上音が多い。ベースも複音が多い。ベースにイニシアティブがあり、それをハープが絹の布で柔らかく包み込むようなイメージ。私はこの曲を聴くとなぜか、水を連想してしまう。川の流れのような水。力強さ。ヘッドフォンをはずす。鮭の産卵について考える。生命力。その激しさ、柔らかさ。時間。良し悪しの話をするつもりはないが、音楽そのものが映像を導き出す。森でもいいのかもしれない。広く安定した空間。映像は止まっていない。動いている。そこには時間がある。
これはJAZZなのか。そうではないのか。そういった話は別途いつか書こうとは思っている。しかし、それは有意義な話ではないようにも思う。演奏者は間違いなくジャズ奏者である。AppleMusicではクラシックにカテゴライズされているようだ。これもまた良し悪しの話をするのではなく、ある領域を越えた瞬間、ジャンルやカテゴライズは意味を失くす。音楽は音がなっている時間となっていない時間があるのみだから。
難しい書き出しをしてしまったが、MIDIを使用したDAWは、演奏者同士の精神的な交流や、イニシアティブの位置などの要素を排除する。私もMIDIを使うし、DAWもする。なにが本物の音楽であるかなどを語るつもりはない。ただ、チャーリーヘイデンの音楽における音と音の狭間、その瞬間に潜り込む音楽的探索や精神的な他者とのコミュニケーションが愛おしくてたまらない。