名郷直樹先生の近著二冊
大型連休が終わってもなんだかんだ忙しい日々が続いています。じわじわとしかコロナ感染者は減らないのに、世の中の気分だけが広がっています。まあ、気分がオープンになっても少しずつ感染者数が減っていくのは、少なくとも悪いことではない、と思います。ここ何年も世の中を覆いつくしてきた不機嫌の塊が少しずつでも減っていくのは、冬が終わり春になり花が咲き、気持ちのよい季節に向かう今、少なくとも悪い徴候ではないのでしょう。
この間、いろいろ書きたいことはあったのですが、なかなかそんな気分にもなれなくて、というか、やらなければいけない仕事がたくさんあってこういうあくまで個人的な文章を書く暇がとれませんでした(言い訳です)。とはいえ、今もそれほど時間があるわけではないんですが…
空き時間にパーッと文章を書ける人、それも大量の文をすごい勢いで書く人って信じられないことに本当にいるんです。もちろん私はそちら側の人間ではなくて、かなりいったりきたりしながら、文章をつづっていくタイプです。以前、雑誌連載をしていた時などは、だいぶ無理をして書いていたので、案の定何を書いているのか自分でもわからない文章になり、それでも無理やりそのまま載せてもらったりしていたので、「公的なものにポエムを書くな」と各方面から御叱りを受けることもありました。ある時期からそんな自分に嫌悪感を覚えるようになってしまったこともあり、なるべくそういう文章は公的なものには書かないようにしようと試みたこともあるんですが、やっぱり自分にはこういった文章しか書くことができない、いや自分からはこういうものしかでてこないんだな、と最近では半ばあきらめ気味になっています。
こんなふうに、ぼんやりと考えている混沌とした頭の中から、絞り出すようにしてことばにして、それをつなぎ合わせて文章を書くこと、特に自分でもまだうまく咀嚼できていないようなことを、他の人から「出せ出せ」と言われて未消化なままアウトプットするのを、一時「鵜飼の鵜」でたとえたことがありました。全然自分の腹にはたまっていないのに、なんかほかの人から求められるものだけを出す、という意味です。まあ、自分がないような気がしていたのです。
以前から、いろいろなところでお目にかかる名郷直樹先生に、「私は文章なかなか書けないんです。どうやったら先生みたいに人がハッとするような文章をすらすらと書けるんですか?」と尋ねたところ、「自分は文章は〇〇〇のようにもう体の中から自然とでてくるんですよ」(一応伏字にしましたが排泄物の意味です)とのお答えで、へー、やっぱり名郷先生は凄いなー、と思ったことがあったのでした。前置きが長くなりましたがここからが本題です。
EBMと私
さて、「卵と私」みたいな大仰な見出しをつけましたが、名郷直樹先生といえばEBMなので、それに絡めてちょっと私とEBMのかかわりについて書くことから始めようと思います。
留学から帰ってきた2000年前後、まあインターネットとパソコンが普及していった時期とも重なるんですが、日本の医療界隈ではちょうどEBMのブームが起きでいたときでした。留学する前ですから95年前後、たまたま自分の周囲にはEBM(まだその言葉はなかったですが)や臨床疫学などを学んで日本に戻ってきたような人たちが複数いて、勉強会や抄読会を通じてまだ訳本がなかったサケットやフレッチャー夫妻のClinical Epidemiologyや、JAMAのシリーズを原著で読んだりしていたことがありました。その後の留学先も公衆衛生だっとこともあり、臨床疫学やEBMには近いところにおりました。中山書店のEBMジャーナルってありましたね、その発刊号に原稿を書いたりしたこともありましたし、講演やワークショップのお手伝いをしたこともありました。今となっては恥ずかしいですが、EBM教育についての初歩的な研究をして論文にまとめたこともありました。
あれからだいぶ時がたちましたが、今の私をみて「EBM」とか「臨床疫学」という印象を持つ人は、もはやいないと思います。でも、私とEBMとの距離はそのころと1㎜たりとも変わっていません。私にとってのEBMはあくまで臨床のための重要かつ主要な手法であり、すごくおおざっぱなくくりでいうとコミュニケーションもふくめた臨床技法の一つだと思っています。けれども、コロナ禍での感度・特異度の話や、検査精度の話一つとっても、臨床医ですら無理筋の理屈を述べる人もいるし、ましてや一般の人にとってはなかなか理解してもらうこと困難でした。理解を得ようと無理をすればするほど、屁理屈をこねまわして…と乖離していく。これほど世の中と相性の悪い考え方もないのかな…と実感しました。平均値をはじめとした、集団としてのデータを個々の事象にあてはめるということの難しさ。臆病な私にはそのことについて真正面から取り組んだりする能力も気力もはないんですが、研究者でも、理論家でもなく、あくまで実践家としての臨床医としてのスタンスを維持する私にとっては、EBMはやはり原則に照らしながら決断へと導いてくれる、臨床の根幹になっています。たとえ世の中と距離があっても、齟齬があっても、それはそれとして、EBMを用いながら、実際には流れに任せて動いていこうかな、と思っているんです。
いずれくる死にそなえない、そして往復書簡
今年に入り、名郷先生の近著を二冊、献本いただきました。まず、一冊目は私たちのまわりではかなり話題になった本です。
医療をやっていて感じる無力感。血圧の上下に一喜一憂する人たち、それに距離をとりつつもその一喜一憂に加担している自分たち。そんな毎日で感じる不全感を克服するために、いかにすればよいか。そのためには、「長生きする努力」にキリをつけよう。最後に必ず人は死ぬ。せいぜい自分たちが行っていることは死の先送りに過ぎない。過ぎないのだから、そこに多大な労力をそそぐのをやめよう。死を隠蔽するのをやめよう。死の不安から解放された安楽寝たきり、上等じゃないか、むしろ、これからの私たちは、「死を寿ぐ世の中」を作っていこうう、ということが、いったりきたりしながら書いてあるのがこの本です。
こういうこと、もしかすると誤解を招いたり、一歩間違うとかなり反発を受けるラジカルな考えについて、すぱっと書いてあるのではなく、特に前半部分は名郷先生が逡巡しながら、いったりきたりしながらちょっとまわりくどい感じで書いてあるのです。たしかに結構ここは難しいところだと思います。それは「生きる意味」などない、と言っているようなものにもとられかねない主張だからです。いや、言い換えると「よく生きる意味」などない、ということにつながるからです。
数年前に他界した私の妹には生まれつき知的障害があり、若くしてがんを患い、最後は入退院を繰り返しながら、寝たきりになって一般の基準でいうと早世しました。世間一般の基準に従えば彼女の一生は幸せとはいいがたいものだったかもしれません。でも、はたして彼女が生きた意味はなかったのでしょうか? もちろん、答えはNoです。彼女自身は、不満はあったかもしれないですが、がすくなくとも自分が不幸せだとは思っていなかったでしょう。そして、私の家族にとっても、彼女がいたことによって、そして彼女と一緒の生活を過ごしていく中で、困ったことは多かったにせよ、不幸せであったとは思いませんし、その判断は他者がするものではないと思います。私たち家族にとっては、彼女というある意味平均とは外れた特徴をもっている存在があって、彼女が健康ではなく人よりやや早めに病気になって、最後は寝たきりになって、平均寿命に達する前にいなくなったことによってでしか得られない、いやそうであったからこそ確かに生み出された「価値」があるのです。でもその価値を他人に強制する、のもちょっと違うし、では世の中全員にこの価値を理解してもらえるとも、理解して欲しいとも思ってはいません。人には人それぞれの価値基準があります。そのこと自体がまとまって世の中なのだと思いますし、世の中全体を俯瞰して考えると、このような平均から外れた人ばかりのことを考えてしまうとままならないことがあるのも理解できるのです。
だからこそ生まれる、名郷先生の逡巡をくみ取ることができるのです。本書における名郷先生の主張ひとつひとつはちょっとびっくりするような言葉に聞こえるかもしれないけれど、そのためらいの部分があり、ズバッとは言い切れずにある意味もやもやしながら語られるところがむしろものごとに対する誠実な姿勢を感じるところなのです。この部分がわかりにくい、ととられる人もいるかもしれません。なんだ、ずいぶんと軟弱で勝手な意見だな、と反発を覚える人もいるかもしれません。このことについてはいろいろな考え方があってもいいと思うのです。ただ、今は健康で長生きすること自体に価値を置きすぎる、重きを置きすぎる、医療に力を注ぎすぎる、という論理のみが主流になっていて、反対のロジックは、ただのアンチテーゼだったり、そうはいっても最後には医療にすがるくせに、みたいな気持ちでの逆張り論だったりすることが多いように思います。ただ、まずはいろいろと感情を抜きにして、ものごとをもやもやと考えることから始めなければいけません。それが、EBMを通じて、私たちが学んだことなのです。情報について、無自覚で、無批判で、目の前の問題や、周囲の事象を考えずに、ただ受け入れるのがもっともいけないことなのです。情報を自ら集め、それらについて批判的に吟味し、結果を踏まえて、その上で自分の頭で考えて、にっちもさっちもいかない現実に当てはめてて、悩みながらもその時点で進む方向を探りましょう。それはただシンプルに答えを出すことでも、エビデンスを評価すすだけして決断もせずに悦に浸るのではなく、もやもやしながらもきちんと考え、行動し(あるいは行動せず)、その結果を踏まえて次の問題へ取り組む、その作業を繰り返すことこそがEBMである、と名郷先生はずっと言ってきたのではないでしょうか。
そしてなぜか風の歌を聴け
「そなえない」を献本していただいて、ワクチン当番の合間にぱーっと読みきって、その後週末をかけてじっくりと二回目を読みました。ちゃんと読み終わってから感想を加えつつ、献本のお礼を名郷先生にお伝えしようと思っていたところ、なんと二冊目の献本が届きました。いやー早いペースでの出版だなあ、と驚いていたところ、中身をみると薬剤師の青島周一先生との往復書簡でした。お、往復書簡!?医学書で?
往復書簡と知って、私がぱっと思いついたのはこの本でした。
でも、読んでみると、本書は実際にはちょっと前にこちらも話題になったこの本に触発されてできた、とありました。
今回、名郷先生の書簡のやり取りのお相手の青島周一先生は、とても勉強熱心な薬剤師さんです。こんな難しい本まで書いていると同時に、とても優れた実践家でもあります。だいぶ前に、栃木医療センターの矢吹拓先生にご紹介されて一度お目にかかりました。
さて本書では、コロナ禍、というかなり特殊な状況の中で、EBMを極めた二人が、日常と非日常、偶然、現実と真実、AI、ナラティブ、集団と個人、あいまいな情報、などこちらも行ったり来たり(それこそが往復書簡なのですから)しながら、時間経過を踏まえて論を重ねていきます。青島さんと名郷さんとの間のジェネレーションギャップもあり、その論はかみ合うようで微妙にすれ違っています。そのすれ違い加減がまた次のすれ違いを生んでいくのも魅力です。
やりとりが進んだ第六便の最後にことばから生まれる多様な解釈の一例として「詩」が人々に喚起する多義性が話題になりました。その詩の例として井上陽水と石川さゆりの歌を出した名郷さんに対して、青島さんが「あーそれお母さんがよく歌っていました」と返し(これは研修医が時々「それ子供の頃お父さんが車でかけてた曲です」というパターンで私もよく経験します)、話が若干行き詰ったところで、なぜか第七便で名郷先生は村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の一節を引用しながら話を進めました。
青島さんはそれを受け、本屋に行って初めて村上春樹のこの作品を買い求めて読んだ(ここもジェネレーションギャップを感じるところです)上で、「風の歌を聴け」の内容を踏まえつつ、その後の第八便、第九便、第十便へと話題は進んできます。青島さんはわりと文字通りに「風の歌を聴け」を読んでいくのですが、名郷さんは、やはりいったりきたりしながらだいぶ突拍子もないとも思われる方向へと話題を進めていきます。このあたりは、禅の老師と弟子の「趙州洗鉢」のやりとりのようで、かみ合わないようでいて、実際にかみ合わないところに、何かの意味がかみ合っていきます。
特に2021年から22年にかけて(最後はウクライナ情勢にまで話が及びます)の、おそらく歴史に残るあの混沌とした時のながれを真空パックしたような書簡なので、その頃の時代感、空気感が感じられる文章となっています。万人受けするかどうかはともかくも、同じように臨床に従事し、もやもやしながら毎日を過ごしてきた私はとても面白く読みました。そうですね、この本は、ここから何かを得よう、というものではなく、何かもやもやしたものを抱えて臨床に立ち向かっている人たちが、ああ、でもこういう考え方で日々すごしているのも実はそれほど悪くはないのかもしれないかな、と思わせるような本ではないかと思いました。
そして、その中から、自分も何かひとつ、はじめてみようかな、とか、何か考えてみようかな、といった思いにいたるような、触媒みたいな本ではないかと思いました。まさに誰も見向きもしない「副腎」に新しいものを求めるように。ああ、なかなかこの気持ち、うまく文章には表せないなあ。
読書会
ということで、実はわたしは村上春樹のだいぶ熱心な読者なのですがそのことをここで書きたいのではなく、ちょっとこのお二人の「風の歌を聴け」のやり取りにインスパイヤされて、なんか読書会をしたくなりました。 こここ何年かの私は、重点的にいろんな本を読んできたのですが、ただただインプットし続けているだけで、なかなかそれによって得られた自分の中の想いを少し外へと出したくなってきたこともあります。医療に絡めるでもなく、自分の考えとも共鳴させるのでもなく、とあるテクストを読んで、それから与えられた自分の変化について他者と共有してそのテクストから得られたものに変化を加える、、まとまらない考察を繰り返し、その思いを交換すること自体に意味があるのではないだろうか、という思いに至ったのです。昨年の秋以来やってきた、対話を通じて自分たちの仕事というか生活を見つめなおす作業と連関するものです。
とはいえ、いきなり「チボー家の人々」について語り始めても誰もついてこないと思うので、有名どころの現代作家の短編について、ちょっとした読書会を始めようかなと思っています。詳細はもう少し煮詰まってからあらためてアナウンスしたいと思いますが、まずは気楽に生きたい、いや行きたいと思っています。いやーますますこの業界の王道から外れていっているなあ…
ということで、わりと今回の話はすぐ続きます。たぶん。