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大きな人生の転換期(2011.3.11を振り返る)

(画像は東京で免許更新をした教習所に献血会場があったので人生初献血の時に貰った水)

ちょうどお昼すぎ

絶賛春休みだった私は北海道の友達とSkypeでゲームの話で盛り上がっていた時のことです。

この頃、小さな地震がおおよそ1週間に1回のペースで発生していたのを覚えています。

最初は小さく揺れていて北海道も揺れていたそうで、「お、揺れてる、最近地震多いね~」と軽口を叩きながら特に何かを警戒するなんてことなんて一切しませんでした。

これから来る生死の分岐点がくるなんて一切考えてませんでした。

揺れて少し経ってから少し違和感が出てきました。

「あれ?揺れ長くない?」

その頃まで経験していた地震はせいぜい10秒くらい、長くても20秒ほどでした。地震はそういう物だという経験上の認識のもと「たまに起きる自然現象」程度の認識でした。

揺れてから1分ほどで事の重大さに気づきました。どんどん揺れが大きくなって、人生で経験したことのない振動が部屋の本棚や机を通じて私に危機感としての反応をさせました。

学校でよくある避難訓練よろしく、まず机の下に隠れました。パソコンと一緒に。

この頃私が「無人島に1つだけ持っていけるとしたら何を持っていくか」と問われれば間違いなく「パソコン」と答えたでしょう。何なら命の次に大事なものだった気もします。

机に潜ってから数十秒くらいは友達の声がイヤホンからしていた気がしますがそんなのが一切気にならない程度に今までに経験したことのない自然現象にただただパニックを起こしていました。

机の上の段に置いてあった国語辞書が目の前にものすごい勢いで落ちて来たのは今でも忘れません。

おそらくあれを頭で受けていたら今この文章をこの世で回想して書いている、なんてことはなかったと思います。

それと同じタイミングで棚という棚から本やらCDやらが落ちてきて、最終的に一番近くにあった棚がそれと対面に置いてあったベットの上に倒れ込んできました。そこにいてももれなく私は短い人生を終えていたと思います。

1回目の揺れが落ち着いたところで一旦部屋を出たタイミングで、

「慎司、大丈夫!?」

丁度夜勤開けで帰ってきた母親の大きな声がしました。

私の部屋が2階にあり、母親が1階の居間で寝ていまして、姉も大学の春休みかなんかで帰省して1階でテレビを見てたと思います。

大丈夫か、と聞かれると大丈夫なわけは無い(揺れも完全に収まってなかった気がします)ですが、

「大丈夫」

といった記憶があります。

そんなやり取りがあってすぐのタイミングで2回目の大きな揺れがありました。すると母親がまた大きな声で

「トイレに入りな!窓は開けて!」

トイレ(一般家庭にある大きさ)は柱が密集して狭い空間という構造上、部屋の中で地震が来ても崩れにくい、窓を開けるのはドアが開かなくなった時に外に出る方法を確保する、とこの後母親に聞きました。

ともかく言われるままにトイレに逃げ込み、2回目の揺れを凌ぎまして、母親と姉と合流するため1階に降りたところで3回目の揺れがあり、その時は1階のトイレに逃げ込みました。

3回目の揺れが収まり、余震的な揺れも少し落ち着いたタイミングで1度外に出ると、生死に関わるほど揺れていたにしてはあまり変化がないような感じがしました。

私の家の瓦が全部落ちてきて家の前が割れた瓦だらけになっていることを除けば。

揺れで真っ先に外に出ていたらもれなく頭上から降ってくる大量の瓦の下敷きになっていたでしょう。それくらい落ちていました。

1回目の揺れから30分も経たないうちに3~4回くらい

「死んでいたかもしれない」

分岐があったのは今にも過去にもこれが初めてだったと思います。どの選択肢を間違えていても死んでいました。

この経験から

私はいくら鬱をやっても「死のう」という考えからはかなり客観的な視点から考えられるようになりました。

1回「死」が本当に手の届くところに来た経験と比べると今の所、心の底から「死にたい」と思えること、あの経験を超えるものは今のところは無いですし、そんなものもこの後の人生ないと思いますし、あって欲しくないです…。

P.S.この後かなり長めの春休み(5月中旬まであった気がする)を過したり、保健室登校から不登校気味になったり、声優をめざして仙台に行ったりするんですけど、それはまた次の機会に…



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