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哲学者の独り言(出張先にて)

 僕の頭の中にはかっこいいものとかわいいものがファイルされている。連続テレビ小説の再放送を見ると、そこには古い映像だとしても美しさや喜びを見つけることが出来る。そんな感じで僕のファイルはたとえ古びていても美しさは時代を越えても変わらない。映像や写真というものはその時間だけを切り取ってしまう。僕は僕が二十歳だったころが確実にあったのに、二十歳の僕に会うことは二度とできない。それは僕のことだけじゃなくて、あの娘やあの娘にとっても同じこと。二十歳だったころのあの娘やあの娘に会おうと思っても絶対に無理なのだ。それを総括して一言で言ってしまえば、人生は一度きり、ということなのだ。僕の頭の中のファイルというのはすなわち脳のことで、そこにファイルされているものはすなわち記憶ということで、だから僕以外の他人には見ることができなくて、そして僕の記憶というものは新しく更新されている。そんなおかしな話にたどりつく。それが現実。映像や写真の存在は偉大であると思う。*

「これくらいの仕事、三〇分で出来るだろが!」と、僕の背後からいきなり頭にラップを巻いてくるかのように怒鳴ってくる大先輩。本当に三〇分で出来る仕事なら自分ですれば良いのだ。僕が彼の立場だったら、
「これくらい三〇分で出来るだろ。もういい!僕が自分でやる」と、手動の鉛筆削り器の穴に鉛筆を突っ込んでくるくると鉛筆を回して削りながらのように、後輩に向かって言うだろう。そうなのだ。自分でやればいい。自分でやりたくないなら、やりたくないと正直に言えばいい。分かり切ったことなのだ。うどん屋に行けばうどんを食べることができる。わかりきったことなのだ。
 今でも居るのだろうか、競馬場の占い師。本当に勝ち馬を当てる占い師なら、とっくの昔に占い師なんてやめているだろう。朝食べる牛乳入りのコーンフレークの味くらいにあっさりとやめてしまうだろう。食べ過ぎに注意だ。
 だから多くの会社が掲げている「経営理念」なんて嘘ばかりなのだ。本当にそう思うような経営理念ならば自分ですりゃあ良いじゃないか。自分がもよおしたおしっこは自分にしか出来ない。自分の代わりに誰かにおしっこに行ってきてもらっても、自分はすっきりしない。
 でもわからない。医者だって病気になることがある。警察が犯罪を起こすことがある。教師が漢字を忘れることがあるのだ。薄毛なのにフサフサってことがあるくらいに嘘が蔓延している。
 僕は哲学者ではない。でもある意味では哲学者よりも賢い。しかし「哲学者は賢い」と思っているだけで、哲学者は本当に賢いのだろうか。うどん屋へ行ってうどんを注文したら「うどんはありません」と店員に言われるくらいの不可思議だ。「トイレ」と書いてある部屋の扉を抜けると、そこは社長室だった、というくらいの不可思議さだ。これじゃあおしっこはまだまだ我慢しなければならない。歴代の哲学者がおしっこを我慢し続けてきたのには、こういった理由があったのだ。このことは誰も知らない。そう、僕しか知らない事実だったのだ。だからある意味で僕は哲学者よりも賢いのだ。なんの根拠もない、根も葉もないデタラメな話だけど。そう、嘘が蔓延しているんだ。少なくとも僕の脳の中では。
 僕はたまには本当のことを話す。ここに書き記したことは珍しく本当のことだ。一五歳の僕。

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