悲しみの果て(出張先にて)
九月になった。九月になってもた。九月になってしもたで。しもたで!
残暑。秋だ。季節は時が過ぎれば自然と移り変わってゆくのに、なぜだか今年は自転車のペダルをこいできたような心持ちで季節が移り変わっていっているような錯覚がする。錯覚なのだろうか。本当は僕は自転車のペダルをこいでいるのではないだろうか。そのペダルは時には重かったり時には軽かったりしたのだ。夢の中で誰かに追われているように、夢の中で遅刻しそうなように、そのペダルは一生懸命にこがなければ自転車は前に進まない。いや、その自転車は前に進んでなんかいなかった。ずっと同じところに止まっているアメンボだった。何かのはずみでいつのまにかさっき居たポイントから少しずれたところに僕は居る。居る、というのもおかしな気がする。僕はどこにも居ないような気がする。こんなことを書くと、僕という人間は気が狂ってしまっているのではないかと自分でも思うが、簡単に例えれば僕は地面に足がついていないような、宙に浮いたような感じがするのだ。本物の夢は見たくない。現実の世界で夢見心地でいたい。
川本さんじゃなくて川原さんだった。僕は再び彼女の名札を確認したのだった。そして彼女の名前を呼んでみた。
「川原さん!」
「はい、そうです!」そして僕たちは笑った。ははは!
「いつも弁当(代金)のおつりを持ってきてくれるから、誰かなと思ってて」
「はい、お世話になります」と川原さんは言って去っていった。僕はただ彼女の名前を声にだして言ってみただけだったのにそこに笑いが生まれた。どこにでも生まれるものがあり、どこにでも失うものがある。常にどこかで何かが生まれて失われてゆく。そんなことはわかっている。でもそれを意識して生きているわけではない。笑いが生まれた一瞬があり、その時間が去って失われてゆく。結果、時間が去っていった寂しさが悲しみを生んでいる。
何も出来ないような気がしてきたので、試しにハーモニカを演奏してみた。ほんの数秒の演奏だった。ベンドもトリルも出来る。ブルースもR&Bも出来る。Eのハーモニカ。ポケットにDのハーモニカも入っていた。僕はハーモニカを演奏することができた。跳べそうで跳べなさそうな跳び箱を一気に跳んでみせたような気持ちだろうか。
スコッチの小瓶を入手して一週間をかけて毎日ちびちびと飲んでいる。全く酔わない。あんまり酔ってしまっても困る。ひとりで飲んでも楽しくない。かといってひとりでオレンジジュースをちびちび飲むのもおかしい気がする。だが世の中にはおかしなことはたくさんある。夜中にひとりでオレンジジュースを飲もうがスコッチを飲もうがおどろくことはない。突然僕が女になったとしても誰もおどろかないだろう。
完璧な女装をして男を騙してみたい。騙すといっても金銭を不当に奪ったりなどの犯罪行為をしたいというわけではない。男を誘惑してみたいのだ。男をこちらに振り向かせて思わせぶりなしぐさをしてみたい。
いったい何なんだろう。ひとりごとがひとりで誰に話しかけることなくただ喋っていることだというのなら、僕がここで書いていることは、ひとりごとならぬ、ひとり書きなのだろうか。悲しみの果て。僕は、どこに向かえば、どの方角に向けばあるのかわからない、悲しみの果てに向かっている。いや、今居るところが、
悲しみの果てなのかも知れない。