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めぐる冒険

 僕は肩こりがひどい。仕事で残業が連日続いたときなんかは寝ころばずにいられない。悪夢を見るのだ。何度も何度も悪夢を見るのだ。何度も何度も悪夢を見るとそれは悪夢というより冒険のような感じになってくる。悪夢慣れとでも言ったらいいのだろうか。そして悪夢とは何か。僕は僕の見る夢しか見たことがない。当たり前だがそうなのだ。だから「悪夢」と言っても、誰の夢を基準にしてどこからがどこまでが悪夢で、どこからどこまでが悪夢ではないのかはわからない。「悪夢」というものは曖昧で抽象的だ。僕が見る悪夢は誰かが死ぬわけではない。誰かが大けがをするわけではない。よく見るのは、何者かわからないものから逃れようと走ったり、もうとっくに学生ではなくなったのに学校に遅刻したり、といったくだらないものだ。そういう悪夢を連日見ていると、それはまるで冒険、僕は何者かわからないものから逃げるために冒険を続けるのだ。夢の中でいろんな場所へ行った。山や海岸、地下やトンネル、あるいは崖の縁を歩いたり、普段は運転などほとんどしないのに自動車を運転して急な坂道を下ったりした。運転しているときの私の自動車はかなりの確率でブレーキが壊れている。冒険の目的はなにもない。強いて言えば逃げることが冒険の目的。僕は冒険を続けた。悪夢を見続けたのだ。ただ逃げるだけでは飽き飽きしてきた僕は、探すことにした。いったい何を?羊?いや違う。鼠?いや違う。僕はいったい何を探そうというのか。
 僕は九州の伊万里市にやってきた。松浦鉄道は一両編成。一両だけなのに編成というべきものなのか迷った。一両といえども車両には何千何万個ものパーツの組み合わせでできている。それらの組み合わせとして、編成という言葉は妥当なのかもしれない。
 朝七時、通学する学生たちががやがやとスマート・フォンの画面をお互いに見合ったり見せ合ったりして弾んでいる。まだ若い朝日と学生たちの声が重なり輝いていて眩しい。こっちにグループ、あっちにもグループ、一両編成のいかにも田舎の電車風情ではあるが、利用する客は都会のひとが考えるより多いのだと思う。そのグループとグループの間にひっそりとひとり、誰にもどこにも属しない女の子がいた。

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