どん底のオフシーズン
2013シーズン終了後、当時J1大分トリニータに所属していた私は契約満了となり次の所属先を探していました。次の所属先、ツエーゲン金沢に選手として加入したのは2014年3月中旬、Jリーグもすでに開幕している時期でした。
様々な思いを抱いたこの期間の事について少し詳しく書きます。
不甲斐なき2013シーズン
まずはオフに入るまでの2013シーズンについて振り返ります。
2013年当時エスパルスでもお世話になった田坂和昭さん(現栃木SC監督)が監督を務めていた事もあり前年J1昇格プレーオフを勝ち抜いた大分トリニータに加入。田坂さんを心から尊敬する私は「田坂さんの力になりたい」「トリニータの為に」という思いを抱きシーズンに臨みますが...。
結果はチームは年間わずか2勝でJ2降格、自身はリーグ戦13試合のみの出場、シーズン中に怪我を5回(肉離れ4回内側側副靱帯損傷1回)と散々な結果に終わり自分の力の無さを痛感。
そしてシーズン終了後、契約満了を通告されたのですが甘い考えを持っていた私は「すぐに次のチームは決まるだろう」と思い込んでいました...。
空白の2ヶ月半
怪我を負ってシーズンを終えた私はトライアウトにも参加することができません。(怪我していなくても参加する必要もないだろうとさえ思っていました。)
2013年10月に入籍した私は、妻とともに新たな所属先からのオファーを待ちましたが待てど暮らせど新たなオファーは来ず年を越します。年始に予定していた結婚式と披露宴は無所属の状態で行い、参加して頂いた方々は祝福よりも心配の気持ちで新婚の我々を見ていたのではないかと思います。
この期間、2月初旬に約2週間V長崎の宮崎キャンプに参加しましたが契約には至らずJリーグ開幕の時期まで来てしまいました。
すぐに決まるだろう...何ならJ1のクラブからオファーがあるんじゃないか。そんな甘い考えを持っていた私はプロになり初めて「引退しなくてはいけないかも」という現実を突きつけられます。(今思うと大したパフォーマンスも見せずに怪我だらけの選手を獲得するわけないですよね。)
もちろんサッカーには真面目に取り組んで来たつもりではありましたが、プロの世界で生き抜くにはサッカーと向き合う姿勢、更には自分の人生との向き合う姿勢が甘かったのかと...。
自分の甘さに気付いたのはいいものの、ほとんどのチームは編成が終わり新たなシーズンをスタート。私は新婚で無所属、まさにどん底のオフシーズンでした。
義父母の存在
すぐに決まると思っていた私は大分の家を年末で引き払い、荷物を業者に預けていました。いつまでも業者に預けられるわけもなく様々な状況を踏まえて妻の実家の1室に全ての荷物を一時的に置かせてもらう事に。
新婚早々、私は無職。娘を嫁に送り出したにもかかわらず夫婦揃って家に居る。義父母はどれだけ娘を心配したでしょうか。チームが決まらないストレスや苛立ちから妻に強く当たった事も。それでも私を信頼し、実の息子のように接し、温かく見守り続けてくれました。
義母は先日亡くなってしまいましたが「そっと見守るという深い愛情」を注いでもらった事は一生忘れません。義母の分まで義父には恩返しをして人生を楽しんでもらいたいと思います。
ラストチャンス
オファーを待ち続けていた期間、トレーニングはV長崎の練習参加に行った以外はほぼ1人で自主トレ。長距離、短距離、坂ダッシュしたり一人で追い込む毎日。仲間とサッカーできる事がどれだけ幸せで有難い事だったか...と感じながら日々は過ぎていきます。
そんな日々を過ごしている中、大学時代の監督を通じて「J3ツエーゲン金沢の練習に参加してみないか」とオファーが来ます。これが「現役を続けるラストチャンスかもしれない」とすぐに練習参加。
そして練習参加初日を終えた後、クラブから正式オファーをもらいJリーグが開幕して2試合を消化した3月中旬、ようやく新たな所属先が決まりました。
プロサッカー選手である事の尊さ
この3ヶ月間、今まで自分がいかに恵まれた環境にいたのかを感じ、プロサッカー選手である事の尊さや有難さを深く考える時間になりました。
その状況に置かれないと気付けなかった自分。
当たり前のように毎日サッカーをして生活が成り立つ事
大勢のサポーターに応援されてプレーできる事
人生かけて競争しながら共に戦う仲間がいる事
試合に出れなくてもがき苦しんでいる事さえも尊い事だったと改めて感じ、この期間は私にとってその後のサッカー人生をより尊いものにする大きなターニングポイントとなりました。
そしてこの思いを抱きながら、ツエーゲン金沢で3シーズン、SC相模原で2シーズンプレーする事になりますがこの事についてはまたいつか書きます。
長くなりましたが読んで頂き有難うございました。
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