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『VRML化された美術館』:あるいはアナザー・ミュージアム構想

『VRML化された美術館』は97年に鹿島出版発行 SD 4月号”デジタルミュージアム”に掲載されたもの。
3Dモデルで表現された原美術館とそこでの作品のキュレーションを行えるデジタルコンテンツを作成し、インターネット上で公開しました。その時の背景やコンセプトを、アート、テクノロジー、アーキテクチャーの関係から改めて洞察し、「アナザー・ミュージアム」構想を検討していたころの論文。

はじめに

わたしたちは今とても不思議な世界に住んでいる。自分の目や耳で捉え、自分の頭で考えていると思いこんでいる現実は、実はほとんどがメディアによってもたらされた情報なのだ。まるで半透明の繭をまとい、そこに外側から様々なメディアが投影する像を見聞きしているのである。

言葉としての「ヴァーチャル」は、「デジタル」「サイバー」「電脳」と一列に並べられ、商標を考えるときの接頭語のひとつとしてしか扱われていないので、これらの語句の意味はごちゃ混ぜにされている。だから、これから続ける文章の中での意味をあらかじめ宣言しておこう。

メディアは身体の拡張だというマーシャル・マクルーハン的論理を前提にすればプリミティブな感覚器集合体としての人間が直接うける経験が「リアル」で、拡張された身体が受ける経験-あるいは繭の投影映像-は「ヴァーチャル」と定義付けができる。ここでいう「ヴァーチャル」は、仮想でもないし、架空でもないし、ましてフェイクでもない。Substitutional(代理の、置換された)が最も近いといえる。新聞やラジオやテレビを通じた事件や音楽やドラマの「置換体験」が、何の違和感もなく日常的に受け入れられていることを思い出してほしい。しかも、これらの電子メディアが提供する「置換体験」に身をさらし慣れたことで、わたしたちはその「ヴァーチャル」な現実の中の、真実とフィクションを簡単に切り分けることができる器用さを獲得している。そして「リアル」な現実も「ヴァーチャル」な現実も、等しく価値のあるものとして生活を送っているのである。

美術館という場は、貴重な本物のみが人々の美的体験を可能にする美の体験場とされてきた。でも、颯爽と登場した電子メディアの力を借りることで、演劇が映画に、演奏会がCDにそれぞれ置換され、これらの体験によって私たちの感性がどれだけ豊饒になっただろう。そう考えると実際の美術館に来館して作品鑑賞することだけが美的体験なのではなく、ヴァーチャルあるいはデジタルミュージアムとして「VRML化された美術館」は、置換された鑑賞行為の場になり得ることは容易に理解できると思う。でも、私たちはそれに対するリテラシーをまだ獲得できていない。VRMLに代表されるネットワークを介した3次元表現は、新生の電子メディアなのだ。

ルネサンス時代のメディアテクノロジー

新しいメディアとそのリテラシーの獲得という関係は、1453年のグーテンベルグの活版印刷術の発明が生み出したインクナブル(古版本)とその後のルネサンス時代の隆盛になぞらえることができる。

当時の情報といえば宗教と科学に関する知識であり、これらはキリスト教単一文化の元で情報の受け渡しは教会が独占していた。グーテンベルグの活版印刷術の発明は、その後の50年間で2000万冊という驚異的な数のコピーを送り出し、情報は広範囲で共有できる、ということを示したのだ。聖典を大衆へと解き放ち、印刷というメディアは「文字のリテラシー」を普及させ、読み手と同時に無限の「書き手」も育てていったのである。

もちろん、ルネサンスのきっかけは、印刷術の他に羅針盤と鉄砲があげられるが、マクルーハンの定義でいえば、印刷物も、鉄砲も、航海術(交通)もすべて「メディア」なのである。芸術、建築、文学、音楽、哲学、科学とあらゆる文化が花開いた「人間復興」と呼ばれるルネサンス時代を切り開いたのは人間の拡張と自己表現の手段を兼ね備えた「メディア」の革新なのだ。

グーテンベルグの発明した活版印刷術そのものは、写本を再現するといういわばヴァーチャルテクノロジーであり、その後のアルドゥスのイタリック書体や交通網の整備がコンバージェンスすることで、メディアテクノロジーへと進化していった。そう、「ヴァーチャル」にはrepresent=「再現する」という意味もここでつけ加えよう。

トリニティ

走査線による映像の再現というヴァーチャルテクノロジーがなければ、テレビというメディアが存在しないように、ルネサンス時代を切り開いた航海に必須なコンパスも、当時開発されたヴァーチャルテクノロジーである遠近法がなければ、発明されなかったのだ。

この遠近法は、ルネサンス時代の光学理論の発達によってもたらされた錯覚を利用する絵画技法として、教会が好んで使用した。教会は、訪れた人々に神の御前に跪き、神への感謝とより深い信仰を新たにさせるため、遠近法という最新のテクノロジーを用いた天井画により、実在の建築物とは異なる幻惑空間を生み出すことに成功したのだ。

ここでテクノロジーとアーキテクチュアとアートの華やかな婚姻が行われたのだ。

ヴァーチャルテクノロジーの目的は、ある体験なり、観念を具体化するものであって、それらは人間が心の中で求めるものではなかったか。逆に言えば、ある特定の事象を表層だけ捉えてヴァーチャルテクノロジーで再現するのは技術的な検証になるかもしれないが、アートとアーキテクチュアと複合関係を築くところまでは到達できないのだ。

「VRML化された美術館」は、美術館の理念と機能、そして作品それ自体はもちろん、作品と空間の秩序ある対話をより純粋に融和させることを意味する。そこに現れるのは、磯崎新のいうような、作品と空間との依存関係を包括的な作品として展示することのできる第3世代美術館とも言えるのだ。

アートとテクノロジーは対極に位置するものと考えられがちだが、そこに空間=アーキテクチュアを持ち込めば、トリニティ(三位一体)として一気に親和関係になる。

言葉遊びを許してもらえるなら、フランスの前美術館総長サールは「現代の美術館は実験場であり、また劇場である」といっているし、ブレンダ・ローレルは金字塔的な「劇場としてのコンピューター」を著している。これらを論理演算してみれば、コンピューターと美術館は極めて親和性の高い間柄であり、どちらもスペクタクルに溢れた空間だといっても飛躍しすぎではないだろう。

原美術館サイト「arc-en-ciel」内の「3D Walkthru」は、最先端のメディアテクノロジーVRMLの技術を取り入れ、実在する美術館が「場」としてどういう意味を持つのかを問い直す鏡であり、ネットワーク上で美術館活動を展開する野心に満ちた実験場なのだ。

原美サイト

原美3D

不完全なオリジナル

ホームページやVRMLの制作時に問題とされる、デジタルデータとしての作品の価値を少し考えてみたい。「オリジナル」と「コピー」の違いである。ここで述べる「コピー」とは、「オリジナル」と限りなく近い物を作り出す模倣ではなく、様々なメディアに対してその特性に応じた「オリジナル」の部分抽出(色が着いてないとか、解像度が落ちているとか、立体作品なのに平面だとか)、という考えで進めていく。人々はまったく作品を知らずに美術館に足を運び、そこで生まれて初めて作品と対峙して感動を覚えるということは、メディアの発達した現代では少なくなっているのではないだろうか。おもしろいことに「オリジナル」を実際に見て本物だけが持っている芸術性をたくさんの人に体験してもらいたいと思ったら、「オリジナル」を部分抽出した「コピー」をメディアに流布する必要がある。本の宣伝には、新聞や雑誌やラジオなどが、映画の宣伝には、ポスターやテレビ、情報誌。美術館の展覧会も、展覧会ポスターや雑誌の特集、テレビなどに作品の「コピー」を公開しなければ「オリジナル」は誰の目にも触れることはないのである。それぞれのメディアを通じて人々は「コピー」に対して価値を見いだし、これをトリガーとして「オリジナル」への接触欲求を高揚させる。

「コピー」を蔓延させることが「オリジナル」の認知度を向上させ、芸術的価値を高めているといえる。

市場原理に基づく作品の稀少性とか、マス・メディアでの受容されやすさと量とかが、作品の芸術的価値を決める要因ではないはずだし、本物の価値はメディアによって変わるはずもないのだ。本物か、本物ではないか、という二律背反しか認めなければ、先に述べたような“バーチャル”という概念は存在しない。両極の間にはなにも存在しないというのは、なんとも「デジタル」的な考え方ではないか。この間には、「アナログ」的に無数の段階が存在するはずなのである。

本物の「コピー」を届けるメディアにはそれぞれの特性があり、本物の持つ感覚的な特性も含めた全てを単独のメディアで伝えることは不可能である。だから、それぞれのメディアはそれぞれの「不完全なオリジナル」を伝達することになるのだ。単に作品をデジタルデータへと変換したからと言って、この事実が変わることはない。デジタルデータのDuplicate(複製)はいくらでもできるが、そこに継承されるのはやはり「不完全なオリジナル」であり、その意味では雑誌やテレビの場合と何ら違いはないのだ。原美術館のコンテンツ作成の際にもっとも考慮したのは、「不完全かもしれないが、VRMLでしか伝えられないものはいったいなんだろう?」という点だった。

デスクトップ・シティ

先日、渋谷のとあるビルの上部から階下を見おろしたときに面白いことに気がついた。たくさんのお店を渡り歩き、商品を買ったり、情報を収集する人達を俯瞰しながら、たったひとりの人の動きを追ってみたのだ。それはまるでコンピューターディスプレイに表示されたデスクトップ上のフォルダーやファイルのアイコンを探しているカーソルに見えたのだ。例えば、GPSを持った人の動きをトレースし、緯度、経度をモニターしてみれば、まるでウィンドウ上のカーソルのx,y座標を見ているのと同じなのである。ビルはフォルダーであり、その中のテナントはファイルに相当する。都市はデスクトップなのだ。しかし、決定的に異なるのは、コンピューターユーザーは必要とする機能をデスクトップ上に再配置し、そのときどきに応じてフォルダーやファイルのディレクトリ構成を変更するが、都市ではそれは不可能なのだ。都市は、人々が生活に必要とする機能を具現化したものであったが、今では自己増殖的に人工物としてハードウェア化したものになっている。効率的、合理的と呼ばれる都市計画は、「メタリック」というイメージに統合され、小さな領域に莫大な機能を埋め込んだ再起不能な醜悪な空間となってしまう。

都市とデスクトップのメタファーを発展させれば、レム・コールハースのいうような凡庸で普遍的なシステムを表す“ジェネリック・シティ”をハードウェアとし、柔軟な都市機能を実現するためにバージョンアップ可能なソフトウェアをそこにインストールような構造が現代では要求される。都市の機能、構造をビット化し、アフォーダンス的情報空間を再構築することが空間設計に必要であり、これは何も物理的な空間だけで実現できるものでもないだろう。VRMLが生み出す情報空間をそこにスーパーインポーズすることが、実空間のパーセプションやシンボルの意味を物理的な制約から解放してくれるかも知れないのだ。実空間と情報空間を多層的に構築することがこれからの都市計画の中で重要になるだろうし、構造はもとより情報の空間的認知の出来る建築家にしかできないことなのだ。

VRMLテクノロジーは、マルチプラットフォームで3次元表現が可能になる、そのデータをインターネットで相互に転送できる、インタラクションやセンサー機能をプログラムできる、複数のユーザーがその3次元空間を共有しコミュニケーションするマルチユーザー環境を提供する、というような機能を持っている。この技術を使って出来るコンテンツとして、都市や建築というものがもっとも適していることは言うまでもないが、VRMLコンテンツとして独自に構築された優れた都市や建築のモデルというのは、未だに輩出されていない。グラフィックの枠をでていないのだ。有明や台場のビル群のほうが全然VRMLモデルらしい。建築の分野では、物理的な制約を離れフォルムを追求するアンビルドというカテゴリーがあるが、リアルタイムにコミュニケーションが可能な場であるインターネット上でこれを展開してみれば新しい地平が見えてくるような気がする。フォルムとファンクションをアフォーダンス的情報空間として組み上げ、それらを机上のシミュレーションではなく、ネットワーク上に解き放つのだ。そこから萌芽するのは、実空間にも適用可能な新たな建築であり、バリアフリーの概念を含んだ未来的な身体かも知れない。

第3の原美術館の誕生

美術館の本来の機能は、教育・普及活動、収集・保存機能、研究活動、展示活動とされている。一般の人々に対して、研究を重ねた学芸員がテーマを選び、展示会場にふさわしい作品の選定と演出を考えキュレーションした展覧会を公開することによって、芸術を広く普及させ社会教育活動として成り立たせるのが、博物館・美術館の本来の役割である。

美術館本来の機能を果たす限りは、その活動をネットワーク上に持ってくることも当然可能なのだ。通りがいい名前として“バーチャル・ミュージアム”とも呼べるが、“バーチャル”は対象を理解するための、個々の手段であるメディアを総称しているだけだということを思い出してほしい。新しいメディアテクノロジーとしてのVRMLを用いて、現実の美術館では金銭的、物理的、時間的に遂行するのが難しかった活動を展開する事は、18年間の原美術館の活動から見ても時流に乗った連続的な発展なのである。東京都品川区にある原美術館は、1938年に渡辺仁設計のバウハウス様式の私邸として建てられ、1979年から現代美術専門の私設美術館として活動を開始した。独自のキュレーションと住宅である空間を活かした展示を特徴としていたが、建物の構造上大がかりな作品や重量のある作品は扱えない。この物理的な制約を解決し、新しい活動の発信源として群馬県渋川市に磯崎新設計の木造建築ハラミュージアムアークが約9年前に施工されたのである。さて、ハラミュージアムアークは“プライマル・スピリット“に代表されるような大規模なインスタレーションを中心とした展覧会や大勢が参加するワークショップなど、場所や空間の利点を最大限に生かした活動を展開してきた。しかし、ハラミュージアムアークは距離的に離れすぎているのと、積雪のため冬季休館を余儀なくされるという欠点を持っている。では、この制約を克服し、さらに現代アートの新しい可能性であるメディア・アート、インタラクティブ・アートなども取り込んでいけるような次の活動の場はなんであろう。そのひとつの解が、オフィシャルサイトの”arc-en-ciel”であり、そのなかのVRML空間”3D Walkthru”なのだ。たんに技術的に新しいから取り込んだわけではなく、必然性があったのである。

”arc-en-ciel”の詳細はここでは省略するが、VRMLというメディアテクノロジーによって出現した第3の場である原美術館、ハラミュージアムアークが提示するのは、空間と作品の関係性である。現在公開しているものは、実際の展覧会を企画するように学芸員がテーマに沿った作品を選定し、コレクション展として収蔵作品を展示しているのである。実際の美術館では、作品と空間の関係は視覚的な演出だけでなく、歩く、見上げるなどの動作と連動する体性感覚と共に認知され、それらを統合して作品鑑賞が成り立っている。

VRMLで表現された美術館では歩き回ったりという鑑賞動作は残念ながら呼び起こせない。そのため、視点の移動だけを要因として、空間と作品の関係が結ばれる、あるいは崩れることで視線を誘導し、作品に一義的な場所性を与えることが重要な命題となってくる。そこでは、空間の中でどう見えるかといった作品の量感や、複数の作品が並んで見えることによる意味/関連性を表現することが出来るのだ。この考えは建築とアートを緊密に結びつけるパブリックアートの考え方にも相通づるであろう。

観客が作品に新しい価値を見いだす手助けをしてあげることが、美術館の役割であり、”3D Walkthru”を含む”arc-en-ciel”全体がネットワークにコネクトしたユーザーにこれを提供するものなのだ。

画集という印刷物からテレビやビデオ、VRMLを含むインターネットといった多様なメディアによる情報と実体験が補完し合いながら層状に重なることで、芸術に対するより深い知識と豊かな感性が養えるのではないだろうか。

アナザー・ミュージアム

VRMLやデジタルテクノロジーが可能にする、新しいアートのアイディアを探ってみよう。この表現の場をここでは“アナザー・ミュージアム”と呼んでおく。

■人工生命の胎動
生態学者トム・レイの制作した進化シミュレーション・システム「ティエラ」はコンピューターメモリーの中で増殖し、進化するプログラムを生み出し、デジタル生態系が可能であることを示した。彼はこの経験を生かし、クリスタ・ソムラー&ロラン・ミニョノーと共同で人工生命の手法を取り入れたインタラクティブアート「 A-VOLVE」を制作した。この手法は、最近のクリスタ・ソムラー&ロラン・ミニョノーの作品「ゲンマ」にも受け継がれている。この分野ではカール・シムズ、原田大三郎、ウィリアム・レイサム等が活躍している。

人工生命という純粋な学術研究テーマがアートにつながるのは、研究の過程でコンピューターを用いたシュミレーションを行い、その結果をビジュアルに表現したときに、見る側に自然自体が与えるのに似た感動を呼び起こすからである。

次の展開として考えられるのは、人工生命をネットワーク上に放り込むことであろう。外的要因としてトラフィック量やアクセス回数、リンクの数などによって進化の方向が変わるものなどが考えられる。例えば、その人工生命体を見るためにアクセスするとデータパケットの増加が人工生命体に影響を及ぼし、本来見たかったモノとは異なってしまうような不確定性原理を取り入れたりする事もできる。

■モーションキャプチャーによる集合的ペルソナ
モーションキャプチャーを用いたVRMLキャラクターというのは最近数多くリリースされているが、ここでは空間と身体の関係を仮想空間の中で結びつける新しい身体表現について述べる。このアプローチは、BS文化研究所主宰者の舞踏家福原哲朗氏が「未来身体/空間デザイン」プロジェクトとして取り組んでいるものと非常に近い。

身体の各部分が東洋医学でいう経絡にリンクしていることはよく知られている。例えば足のツボがそのほかすべての部位を代表しているような事である。この様な考えをベースに、モーションキャプチャーで足の動きだけをディテクトして、そこから身体全体のダンスへと演繹する事が出来るのではないだろうか。あるいは、複数人のダンサーの体の特定の部位の動きをディテクトし、それらを再構成することで、バーチャルスペースに集合体としてのダンサーを析出するのである。もちろんネットワークを通じて遠隔地にいる者同士が新たなキャラクターを生み出すこともできる。そのキャラクターは、存在する空間との関わりの中でイベンチュアルなペルソナを備えるのである。ペルソナはそこで初めて個を獲得し、個であると共に集合であるというコラボレーション環境での自己相似性の実体を表す者として記憶されるのだ。

■モーションキャプチャーによるインフレーション空間
モデュロールによる空間展開ではなく、モーションキャプチャーによる人体の動きをまるでゲルで満たされたかのような仮想空間の中に放り込んでみる。
空間にグリッド状にセンサーをおくのではなく、空間そのものをスマートスペースとも呼べるようなセンサーそのものにするのだ。動きの揺らぎの中から場が生み出される、つまり動作の軌跡が空間として出現するシステムを構築してみる。例えば歩く、座る、物をとる、寝るといった生活動作のすべてを重ね合わせることで、実スケールの生活空間がインフレーションする。ひとつの動作から生まれた空間は動作の自由度が増し、その空間を起点にした次の動作がさらに新たな空間を生成する多重発生(インフレーション)空間がそこに現れるのである。

個性を反映するのはもちろん、人数や男女比、身体的特徴によって固有のインフレーション空間が励起され、空間の回りの仮想ゲルには密度の分布が生じることで偏向顕微鏡で覗くような回折縞が現れるのである。これは単純なプロセスアートではなく、没個性の計数主義的人間工学を基とする空間建築とは異なったデジタルテクノロジーが可能にする新しい空間設計手法といえる。

■12次元の超立方体(ハイパーキューブ)
アートとして成立するかどうかは定かではないが、空間構成の考え方として面白いと思い、ダニエル・ヒリスが開発した並列処理コンピューター「コネクション・マシン」の紹介をする。
MITで人工知能、認知科学の研究をしていたダニエル・ヒリスは「グランド・チャレンジ」と呼ばれるような遺伝子構造解析や地球規模の気象シミュレーション、流体のCGによるビジュアライゼーションを可能にする、人間の脳をモデルとした巨大パラレル構造を持つ「コネクション・マシン」を開発した。これは、プロセッサ間のコネクション・ネットワークの構造とその可変性を立体空間として筺体の中に構築する事で現実のものとなったのである。

最終的なその外観はアートオブジェともいえるほど美しい。「Cube of Cubes」と称される8個の小さな立方体からなる大きな立方体として仕上げられ、一見機能主義デザインの産物に見えてしまうが、実際は4096個のチップ(それぞれは16個のプロセッサで成り立つ)を12次元のハイパーキューブの形を取ることでどの2個のチップも12ステップ以内でコネクションされるという構成原理が形態を従わせた。これによって、6万5536個のプロセッサが協調演算するようになり、あたかもノイマン型においての光速の壁を越えたような快感すら与えてくれるのである。
コンピューターの中に12次元のハイパーキューブ構造を構成することをフラクタル的に全体への相似に引き延ばせば、ネットワーク上にコネクトした6万5536個のコンピューターが12次元のメタ・パラレル・コンピューターとして機能することだろう。

では、このメタ・パラレル・コンピューターを論理的なネットワークトポロジーから、空間的な構成に転換したらどうなるのか。この12次元のハイパーキューブ構造をVRMLによって構造体として、4096個の閉鎖空間とそれらを相互につなげる「ハイパーライン」で建設するのである。それがどんな空間で、どのような役割を果たすかは定かではないが、コンピューターサイエンスの理論を仮想空間に実体化させることは、人工生命と同様非常に興味深い現象が現れるのではないかと考えている。

■CAVEシステムによるシスティーナ礼拝堂
これ自体が新しいアートと言うわけではないし、必要なテクノロジーもおそらくVRMLやインターネットのレベルを超えているとは思うが、空間と作品を驚愕の技で結びつけたミケランジェロのシスティーナ礼拝堂のフレスコ画を現代のテクノロジーで甦らせてみたい。

1508年に天井画に着手し、1541年の“最後の審判”で完成したこの壮大な作品は、400年以上繰り返し汚損を受けてきた。さらに、それを復元するため幾度と無く修復を行ったが、修復技術者のスキルによっては回復不可能なまでの損失を受けてしまったのである。さらには、芸術作品としての保存のために、褪色を恐れて明るい照明のもとで鑑賞することもできないのだ。人類の財産として広く公開されることと、未来に継承する芸術作品という扱いの間で、このフレスコ画は揺れ動いているのである。

また、教会に裸体は不謹慎であるとして、ミケランジェロの死後に弟子によってすべての人物に腰布の加筆が施されてしまった。芸術作品としてミケランジェロの“天使の業”のオリジナルを鑑賞したいと思うのは当然の欲求であろう。

芸術的、宗教的、化学的、建築的、歴史的に最高の考察を加えた3次元CGを、Infinite Realityを用いたCAVE Systemに投影し、このルネッサンス時代の最高傑作を目の当たりにしてみたいものだ。当時、除幕式の際に発注者である教皇パウルス3世さえ思わずひざまずいた“最後の審判”を、くらくらするほどの没入感を伴った空間として再現することはテクノロジーとアート、そしてアーキテクチャーを融合させた一大事業となるだろう。

ネットワーク上の美術館

芸術はこれまで、ギャラリー、美術館、キュレーター、学校などの権威構造が存在することによって“アート”というラベルを付けることが出来た。しかし、オープンなネットワーク上では誰もがアーティストだし、すべてのサイトが“ミュージアム”を名乗ることも可能である。個人と個人、個人と大衆がコミュニケーションでき、マスメディアによる恣意的なフィルタリングや権威主義の対極にあるインターネットだからこそ、権威による価値評価を必要とするような芸術は存在し得ないのである。これからの時代は、アートの裾野が広がると共に、その「オリジナル」の芸術性がより厳しく問われることになるだろう。

すでに述べた“アナザー・ミュージアム”は、実は原美術館が企画しているネットワーク上にだけ存在する美術館の構想なのである。もちろん、ここに書かれたのが全てではないし、“アナザー・ミュージアム”の実現にはいくつものステップが必要である。インターネットというコミュニケーションの場や、VRMLというメディアテクノロジーを導入し、アーティストとのコラボレーションの中から新しい作品を生み出そうとしているのだ。そこは、いわゆるデジタル系のアーティストだけでなく、インスタレーションやペインティングなど従来の表現手段を持つアーティストが活躍している場でもあり、アートとテクノロジーが融合する場なのである。

作品と空間の一義的な関係性は、“アナザー・ミュージアム”の核となる特性であろう。たとえば、ル・コルビュジエのムンダネウム構想の中で提案された世界美術館を純粋な構想のままに実現できる可能性もある。人類の歴史的発展をシーケンシャルにかつシンクロナイズさせて示すための「成長する建築物」という意図を、螺旋ピラミッド状の空間構成に還元した「無限発展の美術館」は形態としてもっともふさわしいかも知れない。またその逆に、作品に応じて、あるいはキュレーションに応じてネットワーク上の展示空間を独自に構築することも、あたかも劇場の舞台のように絶大な効果を上げることになるだろう。

ここから生み出された作品の新しい評価基準は、作品へのアクセス数かも知れないし、ひょっとするとコピーされた回数かも知れない。あるいは、ダウンロードされたものがゴミ箱にドラッグされた割合で判断する場合もあるかも知れないのだ。

“アナザー・ミュージアム”構想は一見荒唐無稽な考えに思えるかも知れない。しかし、ジョージ・マチューナスが提唱したフルクサスも、統一フォーマットによる作品や、お気に入りの作品のフルクサス・エディションの制作販売、マルティプルという作品の形態を生み出すもととなったフルクサス・マルティプルなど、当時は奇想天外、天衣無縫の活動ではなかっただろうか。

おわりに ー再びトリニティ、そして“arc-en-ciel“ー

テクノロジー、アート、アーキテクチャーの諸相を、原美術館のサイトを楔にしながら、ルネッサンス時代から現在までトレースしてみるという大胆な挑戦をしてみた。最後に、原美術館のサイトにアクセスした人からの興味深いコメントをいくつか紹介しておこう。

原美の入り口でWWWのアドレスを書いた小さな紙をみつけました。 現実空間とネット空間とのイメージの違いで原美の印象が変わってしまうのではないかと思い、アクセスをためらっていたのですが... 原美の印象どうりのすばらしいページでとても安心し、もう一つの部屋を見つけたような喜びまでも感じました。
社会人となってからはなかなか時間があわずにいけなくなってしまった原美術館ですが、こうやってインターネット上でいつでも訪れることができるようになって、とてもうれしいです。
実は私は実際の原美術館へは行ったことが無くてすごく行きたかったんです。でもまさか、インターネット上で先に行くとは思ってもいませんでした。
また、散歩に来ます。
偶然入りこんだんですが、とっても素敵ですね。
忙しくなってここ何年も行ってないのですが、ここで美術館散策できますね。

「部屋」「訪れる」「行く」「散歩」「入り込む」「散策」という、建物や空間を表す言葉に気づいただろうか。おもしろいことに、実はこれらのコメントはVRML化された原美術館“3D Walkthru”を見た人だけでなく、ホームページしか見れなかった人のコメントも混じっているのだ。これは、“3D Walkthru”が3次元空間として原美術館の「実質」を再現しているだけでなく、たとえハイパーテキストで構成されたファイル群だけでも、ユーザーのイマジネーションの中に「実質」を空間として構築できているのに他ならない。

デジタルという技術を手段として導入したデジタル・ミュージアムや、壁に作品を陳列した3次元表現のバーチャル・ミュージアムではなく、”arc-en-ciel”は美術館・博物館本来の機能をユーザーのコンピュータを通して再現した「リアル・ミュージアム」以外の何物でもないのである。

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