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追悼 ジェリー・ジェフ・ウォーカー

『ドリフティン・ウェイ・オブ・ライフ』ジェリー・ジェフ・ウォーカー
Jerry Jeff Walker ‎– Driftin' Way Of Life (Vanguard) 1969

 ウディ・ガスリーが、後世のフォーク・シンガーに残したものは、歌という武器で戦う意志と、放浪する自由さだった。ボブ・ディランを始めとして、後に続いたフォーク・シンガーを目指す若者達は、放浪という体験によって、一歩でも師ウディに近づこうとした。

 ジェリー・ジェフ・ウォーカーは、1942年ニューヨーク州の郊外ネオタントに生まれた。ハイ・スクール時代に、ピート・シーガーやウディ・ガスリー等のフォークの洗礼を受け、自らのキャリアをスタートさせる。卒業後、直ちに放浪を始め、ダラス、ニューオリンズ、ラス・ベガス、シンシナティ、モントリオールと国中を転々としながら、曲を作り続けていった。

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 旅の途中で知り合った、ボブ・ブルーノ、ゲイリー・ホワイト達とフォーク・ロック・バンド、サーカス・マキシマスを結成する。ニューヨークに戻り、地元のフォーク・クラブで演奏するうちに、ヴァンガード・レコードの目にとまり、1967年に『サーカス・マキシマス』を発表。各自のソングライティングは光るものの、グループとしての評価は芳しくなく、2枚のアルバムを残して解散の憂き目に合う事となってしまう。

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 バンドの失敗、ソロ・シンガーとしての行き詰まりをアルコールで紛らわしていたジェリー・ジェフは、度の強い眼鏡をかけた気弱そうな青年と出会う。その彼こそデビッド・ブロムバーグで、ジェリー・ジェフの良き相棒としてライブ活動を助け、数多くのアルバムを一緒に制作する事となるのだ。

 ジェリー・ジェフとブロムバーグの友情物語は1973年に発売された『Jerry Jeff Walker』に収められている「デビッド・アンド・ミー」の中で語られている。飛行機に乗り遅れて夜通し空港で歌い明かした事、ガールフレンドを取りあった話、今では互いに別の道を歩いているけど一緒にプレイした頃の演奏がラジオから流れてくると堪らなく懐かしい気持ちになるよ、といった内容の心温まる歌だ。

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 ジェリー・ジェフ・ウォーカーとデビッド・ブロムバーグの二人は、劇的な場面と遭遇する事となる。1967年の秋、フォーク・ソングに理解のあるニューヨークのFM局WBAIにゲスト出演していた。ほろ酔い加減のジェリー・ジェフは、ブロムバーグのリード・ギターをバックに1曲のオリジナル・ソングを歌った。ひとつひとつの言葉をさぐりながら静かに物語を回想するように歌われたこの曲がエンディングを迎えた瞬間、番組のDJだったボブ・ファスが「…素晴らしいぜ、あんたが作ったのかい」と溜息をついた。その後、FM局の電話は鳴り止まなかった。もう一度あの曲を聴きたいというリクエストの電話で。

 この曲こそ、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの名前を全国に知らしめる事となる名曲「ミスター・ボージャングル」だ。若き日の放浪の中でジェリー・ジェフが見つけたのは、「ミスター・ボージャングル」に代表されるような様々な人々との出会いの物語だったのだろう。2作目となるこの『ドリフティング・ウェイ・オブ・ライフ』のテーマも、やはり放浪になっている。

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 良いのか悪いのか判らないけど俺にはこの放浪のスタイルしか無い、と歌われる「ドリフティング・ウェイ・オブ・ライフ」を始めとし、様々な形でのロード・ソングやホーボー・ソングが収められている。まだ、初々しさの残るバラッド「モーニング・ソング・トゥ・サリー」や、ランブリン・ジャック・エリオットを思わせるトーキング・ブルースの「ランブリン、スクランブリン」、ハーモニカ一とヴォーカルだけの無伴奏で歌われる「オールド・ロード」など、若き日のニューヨーク時代のジェリー・ジェフを知る上でも興味深い内容になっている。

 ボブ・ディランは、自らの心の中への放浪によって歌を産み出していった。ジェリー・ジェフの場合、実践的な放浪の体験を歌の基とした。手法こそ異なるが、共にウディ・ガスリーが残した大いなる遺産に違いはないのだ。
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音楽評論家 小川真一

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