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自然の重ね描き|大森荘蔵『知の構築とその呪縛』
陰うつな空とか、陽気な庭とかというとき、陰うつや陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。無情非情の空や庭が私の内なる心に陰うつとか陽気な「情感」を引き起こすのではなく、空や庭そのものが陰うつさや陽気さをもっているのである。空の青さや庭の明るさが空や庭自身のものであるように。一言でいえば、空や庭は有情のものであり、誤解を恐れずにいえば、心的なものなのである。
昔は近代知によって失われた自然の生命を復活する希望をこの書に感じていたが、久しぶりに読み返すとかつてほど筆者の論にすんなり乗ることができない。フッサール『危機』やコイレの近代科学批判に対して、自然の死物化の原因は自然の数学的描写にあるのではなく、それが幾何学・運動学的にしか描かれていないことにあるという反論(130)はもっともに思うが、その対案が「重ね描き」というのは、こちらの理解不足かもしれないが凡庸な結論に感じてしまう。
曰く「物と自然は昔通りに活きている。ただ現代科学はそれを死物言語で描写する。だがわれわれは安んじてそれに日常語での活物描写を「重ね描き」すればよいのである」。ここには科学的認識の解釈論への批判はあっても、科学的方法論そのものへの批判はなく、むしろその擁護として働いて、結局は科学の現状維持を推し進めることにならないか。重ね描きの精神は前提としつつ、僕らは新しい自然の描き方を生み出さなければ、さらに言えば「描く」という比喩を超えた科学を目指さなければならないのではないか。
とはいえ、昔感動した内容をいつしか当然のものと受け取れるようになったこと自体、かつてこの書を読んで知の構築にともなう「呪縛」から解放された結果なのだと思う。
現代科学が呪術的原因を排除するのは、それが偽りであるからではなく、それが冗長であるから、つまりあってもなくてもいいからなのである。……ラプラスが彼の天体力学には「神の仮定を必要としない」といったように。必要としない、それなしで足りている、のであって、誤りではないのである。
私には、フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える。
自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然は一心同体なのである。
pp.60-65, pp.77-85の西洋古代中世における自然論、生命論についてはこのテーマについて考えるとき参考にしたいが、参考文献として挙げられているスミス『生命観の歴史』を手に取った方がいいかもしれない。