真夜中のキッチンにて

「真夜中のキッチンにて」
 
「別にあなたばかりが悪いと言っているわけじゃないのよ。」
 別れる間際、妻は言った。
「それはあなたが長い間、職場の後輩の女の子と寝ていたからだとかそういうことを言ってるんじゃないの。私が言いたいのはね…」
 そこで妻は少し間をおいた。
「もう私があなたのことを以前ほど手放しで信頼することが出来なくなってしまったということなの。つまり、あなたがその女の子と寝るために私と子どもを騙し続けていたということでね、以前私たちの間にあったお互いに対する信頼が崩れ去ってしまったのよ。跡形もなくね。」
「君の言っていることはわかるよ。」
 僕は言った。
「君が言っているのはつまり、浮気をするために僕が重ねてきた嘘の方が許せないということだろう?浮気という行為そのものよりも。」
 僕は目を伏せたまま言った。ひとしきり沈黙が流れた。まるで僕の罪の重さを示すかのように時間そのものが質量を持った沈黙だった。
「繰り返すようだけれど、あなたばかりを責めているわけじゃないのよ。」
 妻は言った。
「お互いにずっと以前からすれ違いが始まってしまっていたのよ。たとえば子どもの幼稚園の送り迎えひとつとっても、あなたはつらそうに見えたわ。」
「僕がつらそうだった?」
 僕はびっくりして言った。
「子どもを送り迎えすることは別につらくなんかない。それは、多少仕事の疲れはあったかも知れない。でも仕事に行く前に車で幼稚園まで子どもを送ったり、僕が仕事が休みの日に幼稚園まで迎えに行ったりすることは全然つらくなんかなかったよ。」
「それはあなたがそう思い込もうとしているだけで、本当は苦痛だったのよ。だから、子どもが失敗したりしたときに、必要以上にキツく当たったりするのよ。」
「僕が当たっている?」
 いささか愕然として僕は言った。
「ちょっと待ってくれ。子どもが失敗をしたときに叱るのは当然のことだろう?確かに少しキツい言い方をしてしまうときはあるかも知れない。でもそれは、同じ失敗を繰り返したり、危険な目に遭って欲しくないだけだよ。」
「あなたはそう思い込もうとしているだけなのよ。心の奥底にある今の生活に対する不満を私たちに当てつけているのよ。」
 妻は僕の目を見据えて言った。僕はため息をついて言った。
「ねぇ、どうしてそんなに頑なになるんだよ。それは確かに僕に非はあったかも知れない。知らず知らずに日頃のストレスのはけ口を求めていたのかも知れない。でもそれはあくまで僕個人の問題であって…」
「あなた個人の問題なんて今ここでは関係ないのよ。」
 妻はピシャリと言った。
「こうなってしまったのは私たち夫婦に問題があったからでしょう?どうしてあなたはそうやって何もかも自分個人の問題として背負いこもうとするのよ?どうしてすぐに自分の殻の中に閉じこもろうとするのよ?もう少し夫婦の問題に正面から向き合ってくれても良かったんじゃないかしら。」
 妻は吐き出すように言った。
「悪かった。」
 僕は言った。
「こうなってしまったのは僕たち夫婦に問題があったからだろう。そしてその責任の多くは僕にあったと思う。君がなんと言おうと、今回のことの直接の原因は僕の浮気にあるんだから。」
「あなたは何もわかっていないのよ。」
 妻はそう言って、そのあとはもう何も喋らなかった。
 

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