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2021.8.2.mon. モンマルトルのマダム。
銭湯に行くと、いつも顔を合わせるMMは、常連さんたちとはあいさつ程度で、ひとり湯上りの時間をクールに過ごしている。
はじめのうちは、ちょっと目つきの鋭い化粧の濃い婆さんだなと思っていた。しかし、何度か一緒になるうち、それは化粧ではなく「地」なのだとわかった。80歳をいくつか超えていて、腿までの黒いロングソックスを穿いていて「寝間着よ」というワンピース姿。ちょっとおしゃれに見える。
ただ、両脚にシップは欠かせなくて、太腿もあらわにそれを貼るときの姿は、ロートレックの絵にありそうで、私は秘かに「モンマルトルのマダム(略してMM)」と呼んでいる。まあ、少なくともロートレックの娼婦たちは両足にシップなど貼ってはいないだろうが。
そのMMが、私のところにやってきては、「細くていいわね」と言って私の二の腕を掴む。「細い腕って羨ましいわ。あたしのと取り換えてほしい」って、どうやら二の腕フェチらしい。MMだって決して太いわけではない。細い人はほかにもいるのに、なぜか私にばかり「細くて羨ましいわ」と言って、二の腕を触りに寄って来るのだ。
MMは、普段は「暑いわね」とか「~だわ」という話し方で、決してべらんめい口調なんかではないし、比較的きれいな言葉づかいなのだけれど、たまに「くそっ!」とつぶやくことがある。たとえばシップの箱がうまく開かないときなんかに「くそっ!」と言う。だから私は、MMはきっと苦労してきたんだろうなと思う。それであんな言葉をつかってしまうのかもしれない。
MMは、ほんとうは医学の道に進みたかったのだが、指物師の病弱な父親との二人暮らしでそれどころではなく(母親は弟子と駆け落ちして行方知れず)「すまねえなあ、おれがこんなばっかりにセツコ、おまえに苦労かけっぱなしだ。ぐふぇっ、ぐほっ」「大丈夫? おとっつぁん、もうそんなこと言わないで。ほら、お粥ができたわよ」なんていうどん底生活を送っていたのだが、努力家で堅実な彼女はやがて川口の駅前にスナック『モンマルトル』という小さな店を持つ。そこを足掛かりに赤羽、松戸へと進出、バブル景気に乗って小さな成功をおさめたのである……。
まあこのように、銭湯に来る人を見るだけでも私のもーそーはどんどん広がり、話しは尽きないのである。そのうちまた誰か紹介してみようかな。