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2021.9.1.wed. 今朝、布団の中できいた『名前のない馬』は、’70年代にヒットしたバンド・アメリカの曲。

懐かしいなあ。ということではなくタイトル。私の中で「孔子」と「馬」と「名前」と「論語」と「安冨歩」というのがぱくっと一つにつながった。

孔子は馬が好きだったし、安冨氏は馬の力を大事にしている。何しろ自身の選挙活動に馬を連れて歩いたほどだ。それで先日につづき安冨氏の著書『生きるための論語』から。昨夜は名前についての章を読んだところ。その中に、孔子が「(こ)」という盃の名について「これが觚か。觚ではないだろう。これのどこが觚なんじゃ!」と言って激怒する話がある。

大昔の中国(春秋時代、日本は縄文時代)では、祭礼は大事なもので孔子はとくに大切にしていたが、ほかの人はお酒がたくさん飲める場と考えていたようだ。孔子自身も大酒飲みと言われているし、みんながへべれけになることについては、まあ仕方ないなあと許していたのではないかと。

それよりも問題なのは、「觚」より遥かに大きい盃(すべて大きさによって名前が決まっている)を彼らが「觚」と呼んだことではないかと安冨氏。
しかし、呼び名を変えるくらいで孔子はなぜ怒ったのか。

彼らは少ししか飲んでませんよ、と誤魔化すために「これは觚だよね」と言って、ほんとは5升も入るような「(か)」を「觚」と呼んだのだろう。そうやってマヒしていく、その先にある怖さを孔子は知っていたから怒ったのではないか。

たとえば「危険」なことをしているのにそれを「安全」と呼んだらどうか。はじめは「危険」を誤魔化すための呪文に過ぎないでしょと思っていても、それを何度も何度も「安全」と言っているうちに「安全」なような気になってくる。そしてほんとうに絶対「安全」だと思い込むようになってしまう。と、安冨氏の話はいまの私たちの世界とつなげて話してくれる。名前を歪める怖さというのは、つまりそういうこと。きちんと現実を見ないとね。

それにしても、商の時代の青銅器っていいなあ。写真だと大きさの違いがわからないけど。右が「觚」で左が「斝」。ちなみに「觚」は2升入る。これでも十分多いよな。回し飲みかな。盃じたい重いだろうし、5升入る「斝」なんて持ち上がらないんじゃないかしらん。どうやって飲んだのか、調べてみよう。今日はギリギリ、日付が変わる前にUPできそうだわ~。



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