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誰も知らぬ所で戦っている人。

こども期を言語化して、少し振り返ってみる。
当時は、今よりももっと感覚が過敏で何もかも嫌だった。
周りの音も、ピタッとする服も、芝生の草も。
ぴったりサイズの服は、密着面積が多くて着ているとむずむずして疲れる。そのむずむずする感じがとにかく不快で仕方がなかった。草はくすぐったいので嫌。
全て鬱陶しい。

でも、当時このことを言語化できる能力はまだ持ってなかったので、事あるごとに泣いていた。いろんな意味で敵が多かった。

音については、虫の羽音からバスの停止と発車の音、ドアが開く音が苦手だった。
小学生までは、電車が来る音も苦手だった。
最も嫌だったのは、運動会のピストルの音。このときにイヤーマフ(防音保護具)があれば、どれだけ助かっただろうかと思う。
たまにふざけて、突然「わっ!!!」とか「うぃーっ!」というコミュニケーションの取り方をしてくる人がいたけど、こちらは心臓持ってかれるん?という並みに驚くから、イラッとして"ん゛っ!"ってなっていた。相手はノリだと思うけれど、そのコミュニケーション方法は全世界でやめた方がいいと思う。全くおもしろくないし、笑うのは"反射"で笑ってるだけだよ、と思う。いや、これは私の主観だ。
というか、なんでみんなヘーキに過ごせてるんだろうと思っていた。(みんなの耳どうなってるん?ほんまに謎だった)この時、他の人と音の感じ方が違うことがわかった。わかったのだけど、苦手な音は苦手で対処の仕方はわからなかった。それとわざわざ母とか周りに言わなかった。そしてまだ、感覚過敏という言葉は全然認知されてなかったし、私自身も知らなかった。 

どうやら私の脳は、運動機能の他に音量調節も上手くできないらしい。
私の体は、微調整という言葉をまるで知らない。
やれやれ…。なんと愛しいこの器なんでしょう。
大人になってそういうことだったのかと知った。なんとも生きづらかったもんだ。
ヘーキになったわけではない。
「慣れたらヘーキになるんでしょ?」と言われたことがあるけれど、んなわけない。むしろ、"音、来る"と察して意識を分散し、緩和させることがある。
ドキドキを減らすか、感覚を常に張り巡らせるか、だ。
そういう時は、自分に「即死はしないらしいよ。」と心の中で声をかける。 
今も不意打ちに来る音は苦手なのと、舞台や花火など大きい音が出る場所は耳栓かイヤーマフを常備している。

家にいてドラマや映画を観る時は、車がぶつかるシーンとかがあるので音量を低くしているけれど、それだと場面によって聞き取れない言葉もあるので字幕を付けている。字幕のありがたさを痛感する。
字幕は耳の聞こえない人のためだけじゃないのよ。

私の生活には刺激が多い。

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