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27年間、まとめ
この人生で「自由と不自由」について考えることが多い。
きっと一生のテーマの一つなんだと思う。
あなたから見れば私は不自由に見えるだろう。
私は産まれる時のトラブルで、母のお腹からなかなか出てこなかった。15分間息をせず、紫色で出てきた私を見て医師は私の命を諦めていた。母は医師に「この子を生きさせろ!」と叫んだ。母が諦めなかった命。私も諦めなかった命。
この身体を借りて今を生きている。
そうして一見不自由となった私の身体。
でも、私からしたらあなたも不自由ね、と思う。
私は絶対に人の手を借りなければ、自分の自由を味わうことはできない。急に行きたい所へ行くことも、大好きなラーメンを食べることも、人の手がなければできない。おトイレ、歯磨きも人の手が必要。
ひとつの視点で見たら、まったく1人でできていないのだから自由ではないんじゃないかと見える。
手を借りてる相手に「今はできない」と言われると私は何もできなくなる。
こどものころ、母は家事も仕事もやっていたし、他のきょうだいもいておまけに私の介助もあって、いつも忙しない姿だった。きっと無意識に勝手に私なりに気を使っていたらしい。児童デイサービスやショートステイに行っていた時、自分が頼みたいことがあっても
「今、ご飯配るから、ちょっと待っててね。」
「はーい」
「別の人のトイレするから、その後でいい?もうちょっと待っててねー。」
「はーい。」
私だけの時間じゃない。私だけのためにいるわけじゃない。
でも…私は自分で自分のことを優先できるわけではない。
いったいいつ自分を優先できるのだろうと、幼少期にも思っていた。明確にできない淀んだ感情が、端っこに溜まっていった。
相手の事情でたやすく私の日常生活は変わってしまう。ずっと自分じゃない誰かのことで、自分の生活が左右される人生だ。こどもの時は親、成長すれば介助者がありきのこの人生だ。さて、これは本当の自由なのか、と私の脳は問う。
でも、選択だけは自分の頭でできる。何が欲しくて、何が嫌いか。どんな服を着たくて、何を食べたいか。この選択だけは誰にも奪われたくない。
私たち人間は、不自由のなかで自由を探しているのだと思う。
不自由は、抗えない力に直面したときに感じる
自分ではどうしようもないこと。これって、私がたまたま制限があることが重めで、目に見えていてわかりやすいだけなんだけど。
全人類が制限がある。その制限に気付けている、気付かず生きられているかだけだと思う。
生きているものたちは、どうしたって抗えないことあるでしょ。
人間は、元々不自由なのよ。その中で自由を探して生きてんねん。
この制限がある世界でどこまでいかに自由に生きるのか。
皆さんは自分があたかも不自由じゃない顔をして生きているけど、この世は絶対に抗えないものがある。雨、台風、地震、自然災害。自然の摂理。ここ3年は見えないウィルスに皆怯えていた。行動を制限されていた。
その時、何を感じただろう。どんなことを考えただろう。
他にも、私の目には周りの目を気にして自分を隠して行動してる人、言葉を選んで言いたいことを心の奥にしまってる人、がたくさんいるように見える。
学校や会社で、人の目を気にして自分の言いたいことを言えなかったり、変に目立たないようにみんなと同じ行動をしてみたり。ほんとは言いたくないことも、周りに合わせて「わかるー」と言ってみたり、ランチの時間に一緒にご飯を食べる時本当に食べたいメニューがあっても、周りを気にして別のメニュー選んでみたり。
別にアイドルが好きなわけじゃないのに、周りがそのアイドルが好きだから自分も無理矢理推しのメンバーを作ってみたり。
え、不自由じゃない?
この世界で生きてる人は皆不自由なんだよ。さも自分は何でも1人でできるみたいな顔をして生きてるけど、ほんとは不自由だよ。
不自由前提のこの世界で、自分はいかに自由を見出すか、どれだけ自由に生きれるか。人間を生きるってそういうことだと思う。
生きよう。