みんなの中に、本当に"みんな"はいるのか。
私は、今多くの人の手を借りて生活している。
でも、これは障害ある人にとっては、当たり前ではない。
障害の重さによって介助者が派遣される時間が決められている。派遣される時間がとても少ない人が、まだ多くいる。
例えば、今日の晩ごはんは、餃子が食べたいと思ったとしても、18時にならないと介助者が来ないから、それからじゃないと買い物に行けない。作るのも時間がかかる。お店で食べようと思っても入り口が狭かったり、階段があって入れないこともある。
多くの人は、ご飯を作る時間を逆算して買い物にいける。好きなお店にふらっと入ることができる。選択肢がたくさんある。
本当の自由とはなんだろう。
日ごろ、生活していると常にこの問いが浮かぶ。
介助者ありきの生活で、どこまで自由を許されるのかと考える。本来は、それすらも囚われなのかもしれない。
こういうことをぐるぐると考える。
頭がパンクしそうになる。
話は変わり、
車いすユーザーにとっては、寒い雪道も壁になる。ダイヤが埋まり動きにくくなる。でも、温かさを感じる。
車いすが埋まったときに、近くにいた人が「手伝うよー!」と言い、車いすを引っ張ってくれた。
学生時代、雪道を1人で通学するときがあった。
とても不安だった。
しかし、運が良く 除雪が入っていて
道が通りやすかったり、
近所の人たちは雪かきしてて、声をかけてくれたりと
思った以上に、スムーズに行けた。
車いすが埋まっても、いつも挨拶しているおじさんが
「大丈夫かい?」と言って 手を貸してくれたり、
学校の近くで埋まってたら、学生が手を貸してくれたり
人の温かさを感じた。
ほんの少し、手を貸してもらっただけで
私は心が温かくなる。
この寒い冬でも、あなたも私も温まることができるのではないだろうか。
なんて。笑
もし、みなさんの身近に障害のある人にいたら顔が思い浮かぶでしょう。きっと考えるでしょう。
「ここの入り口に段差あって、入りづらそうだな」
「雪だいぶ降ったから、車いす埋まりそうだな」
考えてくれるだけでいい。
あなたの友人に障害ある人はいますか?
なぜいないのでしょう。
なぜ学校には車いすの人がいないのでしょう。
それは、教育で分けられているから。
社会には、みんないる。子ども、お年寄り、障害ある人、LGBT。いろんな人がいる。
私はここにいる。この日本で生きている。
どうか見ないふりをしないで。私はここにいる。