三島由紀夫という迷宮⑦ 雪の朝、銃声響き渡る 柴崎信三
〈英雄〉になりたかった人❼
帝都が純白の雪化粧に覆われたその朝、十一歳の平岡公威は東京四谷の学習院初等科に登校して初めて、事件のことを知った。
「総理が殺されたんだって」
級友の子爵の息子が声を潜めてそう囁くのに対し、彼は「ソーリってなんだ」と無邪気に聞き返し、ようやく総理大臣のことだと知った。
斎藤内府が殺された私邸も学校のすぐ隣にあり、その朝の教室には不気味な不安が広がっていた。授業の一時間目が終わると、担任教師が以後の授業は休校とすることを伝え、「帰り道でどんなことがあっても、学習院生たる誇りを忘れてはならない」と訓示した。しかし、降り積もる雪のなかを帰校する彼の身辺には、何事も起こるわけではなかった。
「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた。少年たちが参加するべきどんな行為もなく、大人たちに護られて、ただ遠い血と硝煙の匂いに、感じ易い鼻をぴくちかせていた」と三島は書いている。
2・26事件についての少年時の三島の記憶はそのようなものだったから、それは成人して作家としての活動を広げるなかで、格別に大きな記憶として彼のなかに保存されていたようには見えない。戦後の10数年余りは「大人しい芸術至上主義者」とみられるようなシニシズムを身上として、好戦的なものを遠ざけてきたのであれば、なおさらのことであろう。
ところが1960年の日米安保条約の改定をめぐって起きた、相次ぐ言論テロ事件と前後して、三島のなかに眠っていた〈2・26幻想〉がにわかに覚醒し、大きな主題となって立ち上がってきたのである。
最初に作品になったのは、深沢七郎の『風流夢譚』をきっかけに起きた嶋中事件と同時期の1961(昭和36)年に発表された『憂国』であり、さらに同じ年に2・26事件で襲われて生き延びた重臣の戦後をシニカルに描いた戯曲『十日の菊』、そしてその五年後、重臣を襲撃して処刑された蹶起将校らが戦後、天皇の人間宣言に呪詛の声を上げる『英霊の聲』を書いた。これをあわせて三島は「2・26三部作」と呼んでいる。
『憂国』はこのような書き出しで始まっている。
三十才の中尉と二十三歳の妻は華燭の典を挙げてから半年に満たない。蹶起の計画を知らされなかったのは、その新婚の身の上を案じた反乱軍の同僚たちの配慮によるものだった。
勅命で彼らを討伐する立場に置かれた武山中尉は「皇軍相撃」の運命に深く悩んだあげく、妻の麗子とともに自刃、割腹の死を遂げる。
割腹自決の決意を伝える夫に、妻の麗子は「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」と答えて、最後の褥の支度をする。
この作品は四年後、三島自身の制作、監督、主演の映画『憂国』として公開された。わずか三十分足らずの短編だが、能舞台を使って様式美を強く打ち出したモノクロの画面に台詞はなく、字幕だけで場面が進行する。
中尉夫妻の最後の愛の営みと、神前で軍服に身を包んだ中尉の割腹自決、さらにそれを見届けた死化粧の妻の自刃の場面まで、画面はワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の荘重な旋律が導いてゆく。
二人の道行を前にした神々しくもある性の交わりと、至高の悦楽とともに流される夥しい血と苦痛こそがこの作品の主題であることは、この映像でもはっきり浮かび上がる。つまるところ、この作品のなかの「2・26事件」という歴史は、作者が「一篇の至福の物語」を立ち上げるための演劇的な書割にすぎない、ということになる。
三島はこの作品について、次のように自註している。
確かに武山中尉にとって、もう一晩待てば叛徒は鎮定され、「皇軍相撃」の事態は回避されるだろう。しかしこの夜の悲境こそ、彼等二人にとってその愛が苦痛を伴った死に導かれて至福へつながる、楽園なのである。
「しかもそこには敗北の影すらなく、夫婦の愛は浄化と陶酔の極に達し、苦痛に充ちた自刃は、そのまま戦場における名誉の戦死と等しい至誠につながる軍人の行為となる」と三島は書いている。
この倒錯した愛と死がもたらす「快楽の原理」を、彼はどこから掘り起こしてきたのだろうか。それは、あの海の彼方に「椿事」を待ち続けてついに見えなかった、仮想的な戦争体験であり、その予兆として11歳の雪の朝に教室で友人から伝え聞いた2・26事件にほかならなるまい。深々と雪が降りしきる事件の朝、蹶起して政府要人や重臣を殺害し、中枢機関を占拠した青年将校らはほどなく無血で平定され、処刑される。それは「椿事」を待ち望む少年にとっての、大いなる「神の死」を伝える前奏曲であった。
『憂国』で滔々と描いた、性愛と自己犠牲による死が一体となった至福の時間という主題について、三島は 戦争中に読んだニーチェとフランスの哲学者、ジョルジュ・バタイユのエロティシズム論に大きな影響を受けた、と明かしている。
バタイユはその著作の『エロティシズム』の序文に「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だということができる」と簡潔に定義している。それゆえ、そこに〈犠牲〉という観念の行為が変数としてかかわることによって、彼らのエロスの愉悦は極大値に飛躍するのである。
『憂国』でこの夫妻の〈犠牲〉の対象となるのは、叛徒となった友人の青年将校たちであり、その陰には見えない観念としての〈天皇〉がある。
『憂国』のなかで、〈2・26事件〉は三島にとってこうした〈エロティシズムの逆説〉をめぐる物語を構築するための、演劇的な装置という意味合いしか持ち得ていない。叛乱将校らが蹶起に至る社会的背景とされてきた昭和初期の農村の疲弊や、「君側の奸」を排除したという彼らの自負に反して激怒した天皇が討伐を指示するという、事件の根幹にかかわる事実への言及を全く排除しているのは、最初からこれを「エロスとタナトスの物語」として純化するための作者の意図によるものであろう。
短編小説の『憂国』が「小説中央公論」に掲載されてからほどない1961(昭和36)年末、三島は戯曲『十日の菊』を発表し、文学座創立25周年記念公演として杉村春子、中村伸郎らによって上演された。
戦後の日米講和が発効した1952(昭和27)年秋に時点を移して、1936(昭和11)年の事件(作劇上の都合で10・13事件とされている)でテロを逃れて生き延びた元大蔵大臣、森重臣とその一族の〈戦後〉が描かれる。
タイトルはもちろん、重陽の佳節に遅れて届く菊の花に例えた笑劇のニュアンスが込められている。かつて湘南のその屋敷で叛乱兵の襲撃にあった重臣は、辛うじて難を逃れて戦後はサボテンの栽培に感けて閑雅な老後を生きている。16年後のその日、かつての女中頭だった菊が訪ねてくる。
なんのための再訪なのか。事件当日のある〈秘密〉を伝えるためである。
事件の折、寝室で菊は乱入した叛乱兵たちに妾を装って裸で対面し、主人の重臣はその隙に秘密の脱出口から逃げ延びた。娘の豊子や同居する重臣の姉妹の女たちの前で、重臣と菊の間の〈秘密〉が明るみに出されてゆく。
〈秘密〉はほかにもある。
同居している長男の重孝は戦地で捕虜虐殺に問われたが、罪を部下に押し付けて無罪となって復員した。それを菊に告白して、自殺をほのめかす。
実は菊にも〈秘密〉がある。小田原の聯隊にいた一人息子の正一がその日、蹶起に加わって重臣邸襲撃の一員となり、寝室で母の菊と鉢合わせをして知った事実を苦にして、翌日自殺しているのだ。菊の無償の献身と犠牲によって、重臣は奇態なサボテンを育てながら〈戦後〉を生き延びている。
「私はこうして生きのびた人間の喜劇的悲惨と、その記憶の中にくりかえしあらわれる至高の栄光の瞬間との対比を描きたかった」と三島は書いている。「至高の栄光の瞬間」とは1936年の2・26事件という〈椿事〉の謂いであり、それは銃弾と刀剣で叛徒に狙われた人間が分かち合う一瞬の〈夢〉である。菊はその日、寝室で裸体を晒して叛徒と対峙し、息子を失った。
その〈秘密〉を告白して欺瞞を暴いた菊に対し、重臣が「ここまで憎みあったら、あとは愛することしか残っていない」と寂しく訴えるのに憐みを寄せて、菊は再びこの家の住人になることを決意する。
「一度お助けしたら、どこまでもお助けするのが、私の気性なんですの」という言葉とともに―。
しかし、この戯曲においても〈天皇〉と〈天皇制〉という2・26事件の思想的核心に横たわる問題については、依然として登場人物の台詞の背後にほのめかされる程度で、直接言及されてはいない。
それはおそらく、2・26事件で叛乱将校らが起こした要人暗殺を含むテロ行為を天皇その人が激怒し、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と述べて討伐を指示するという、彼らの意図とは真逆の方向へ事態が展開したことによっている。大御心にかなうと信じて決行した蹶起が天皇自身によって否定され、「叛徒」の汚名によって指導者の大半が処刑されたのだから、それは必然である。
くわえて戦後の「象徴天皇制」と天皇の「人間宣言」が三島の天皇観と全く背馳することが、この問題を回避させた大きな要因であったろう。
『十日の菊』のあと三島は、UFOを目撃して自分たちを宇宙人と確信する家族を主人公にした『美しい星』(1962年)、横浜の美しい未亡人と恋に落ちた外航船の船員が、失墜した「英雄」の罪でその息子たちに毒殺される『午後の曳航』(1963年)、近江絹糸の労働争議に材をとって日本の父性のかたちを描いた『絹と明察』(1964年)などを書いた。
そして1966(昭和41)年、三度目の2・26事件をめぐる作品として『英霊の聲』を発表する。事件で処刑された青年将校や南の海に特攻で散った勇士らが、死後の世界から「人間宣言」をした昭和天皇に怨嗟の声をあげる鬼哭の物語である。ここへきて、三島はそれまで迂回して遠ざけてきた「天皇」と「天皇制」の問題とようやく正面から対峙するのである。
『英霊の聲』は主人公が一夕、出向いた「帰神の会」での出来事として、神主である盲目の霊能者の青年が過去から呼び出した帰神の声を歌い、石笛の吹奏とともに参会者がそれに唱和してゆく神事を描いている。
そこで呼び出された神霊の声はまず、〈戦後〉の泰平と私欲に満ちた世相を嘆き、次第に物質的な繁栄の影で失われてゆく美徳と大義を暴いて問いかける。それは最後にその堕落と荒廃の因って来るところとして、昭和天皇の「人間宣言」に呪いの声は向かう。
なぜ天皇は「人間」になられたのか。「などて天皇は人となりたまいし」という激しい怨嗟の声を繰り返すのは、いったいどのような神なのか。
神主の青年がその神になり替わって「われらは裏切られた者たちの靈だ」と答える。「われらは三十年前に義軍を起し、叛乱の汚名を蒙って殺された者である。おんみらはわれらを忘れてはいまい」と。
青年はさらに神の言葉を続ける。
続いて南方の海から来たという「弟神」の声が重なる。彼らは神風特別攻撃隊としてフィリピン沖の敵艦を撃滅して死んだ。
昭和21年春、GHQの示唆を受けて、昭和天皇は自らの意志に基づく「人間宣言」の詔勅を出した。現人神にあらず、「実は朕は人間である」と。
「などてすめろぎは人間となりたまいし」
語りがそこに及ぶと、青年はひときわ高くこの畳句をくりかえし、やがて憤怒のなかで手拍子も乱れてゆき、息が途絶えた――。
戦後、「大人しい芸術至上主義者」を身上にしてきた三島由紀夫が突然〈2・26事件〉に覚醒し、1960年頃から事件と天皇や天皇制を主題にした小説や論評を次々に発表する。それは象徴天皇制への批判を通した憲法改正や自衛隊の治安出動などの政治的な主張となって、ついには私兵組織「楯の会」とともに陸上自衛隊東部方面総監部に乱入、割腹自決を遂げるという凄絶な最期につながっていった。不可解と唐突の感は、半世紀後もぬぐえない。
三島自身が、その不可思議な衝動について記している。
『憂国』を原作、制作、監督、主演で映画化した1965(昭和40)年には、ライフワークとなる長編小説『豊饒の海』の第一部『春の雪』の雑誌連載が始まり、後年戯曲の最高傑作となる『サド侯爵夫人』を発表した。ノーベル文学賞の有力候補として初めて名前が挙がった年でもある。公私にわたって〈作家三島由紀夫〉は絶頂期にあり、いささかの逡巡の入り込む余地は窺えない。
そのような身辺に募って来た〈故知れぬ鬱屈〉とは何だったのか。なにがそれをもたらしたのか。〈2・26事件三部作〉を執筆する過程で、それまで避けて通って来た「天皇制の岩盤」へ糸を手繰ってゆくと、戦後の天皇自身の「人間宣言」に行き着いた、と三島は述べている。
『英霊の聲』が発表されたのとほぼ同じ1966(昭和41)年末、〈2・26事件〉の中心を担った皇道派の元主計将校として逮捕され、翌年銃殺刑に処せられた磯部浅一が獄中で書き残した手記が発掘され、公表された。その内容が三島のなかで「天皇」像を大きく膨張させ、そして爆発させるもととなった。
「天皇陛下 なんという御失政でありますか」
「皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
激しい呪詛を繰り返すこの獄中手記が、爛熟してゆく〈戦後〉の緩慢な日常のなかで、三島が抱えていた〈故知れぬ鬱屈〉に火をつけたのである。
事件を主導した磯部浅一は皇道派の主計将校で、陸軍士官学校事件などにかかわって免職となったのち、菅波三郎、村中孝次ら陸士同期の同志や理論的指導者の北一輝、西田鋭らとともに〈2・26事件〉の蹶起を企てた。
1936(昭和11)年2月26日、「国家改造」を唱えたこのクーデター計画は、政府首脳や重臣らを標的にして約1500人の部隊を動員、首相官邸や警視庁、報道機関など首都の中枢を襲撃して内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎ら政府、軍首脳が暗殺された。
事件のさなかに、皇道派に近い侍従武官長の本庄繁が「ソノ精神ニ至リテハ、君国ヲ思フニ出タルモノニシテ、必ズシモ咎ムルモノニアラズ」と内奏したのに対し、昭和天皇は「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と激怒する。
戒厳令が発布され、奉勅命令により叛乱部隊は原隊復帰して、三日後に叛乱は鎮圧された。主導者の磯部は逮捕後、軍法会議で死刑を宣告され、翌年八月に銃殺刑に処された。この間に獄中で書き継いだその日記を東京陸軍衛戍刑務所の看守が持ち出し、戦後の1967(昭和42)年に雑誌『文藝』3月号に掲載された。
天皇自身の勘気と軍部の「奉勅命令」に二重に裏切られた磯部の獄中の怒りは激越であった。にもかかわらず「内なる靈の国家」の神である〈天皇〉の救済を最後まで渇望しながら運命とたたかう記述に、三島は深くうたれた。
三島はこの磯部の獄中手記を読んだ直後に「『道義的革命』の論理--磯部一等主計の遺稿について」と題する論考を雑誌『文藝』に発表する。
磯部浅一の獄中手記から彼の情念がもっとも強く揺さぶられたのは、公判で次々に退路を断たれて、たちまち死刑が求刑されたにもかかわらず、なお「大御心」を恃んで恩赦で生きることを確信する、その楽天性である。「余は七月下旬には出所できる、出所したら一杯飲もう、等云いて、栗(原)、中島をよろこばしたものだ。軍部や元老重臣が吾々を殺さうとしたところで、日本には天皇陛下がおられる」と磯部は記した。
三島は発掘された獄中手記に見出した磯部の「絶望的な楽天主義」を、このようにとらえて、「人は日常生活では、これほど肺腑をえぐる、しかもこれほど虚心坦懐な告白に接することは、めったにあるものではない。そこにあるのは、人間の真相に他ならない」とまで述べている。
それからわずか2年ののち、東京・市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の二階バルコニーに立ち、若い同志と共に自衛隊員らに憲法改正へ蹶起を促しながら果たせず、割腹自決を遂げた三島自身の影がそこに映しだされている。
叛乱軍の行動を一時は容認しながら手の平を返した陸軍中枢への激しい憤怒はもちろん、彼らの「赤心」が天皇の怒りに触れて鎮圧されたことへの鬼神のような呪いの言葉は、戦後の象徴天皇制のもとで「神」から「人間」に生まれ変わった天皇に対する、いらだちと疑念を三島のなかに呼び起こしていった。それはやがて自身が繰り広げる破天荒な〈蹶起〉への通奏低音となった。
戦後、「人間」となった昭和天皇と三島が直接会う場面はもちろんなかったが、もっとも近づいたのは1966(昭和41)年1月8日、最後の長編小説となる連作『豊饒の海』の取材で皇居を訪れ、宮中三殿を見学して祭祀にあたる巫女の内掌典に会ったときであろう。その見聞は『英霊の聲』に描かれた。
象徴天皇として爛熟しつつある平和な戦後日本の偶像にさえなった昭和天皇に対し、三島は「賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かち詩人である天皇のお姿は生きている」(『文化防衛論』)と述べて、文化伝統としての一縷の希望をつないでいるかにみえる。しかし三島にとって、「人間」を宣言して泰平の戦後社会の象徴となった現実の天皇はもはや遠い存在であり、その肉体は自己目的化した〈行動〉へ向かって走り始めた。
「『道義的革命』の論理」を発表してから二か月後、三島は初めて単独で陸上自衛隊に体験入隊した。年末には航空自衛隊百里基地でFIO4戦闘機に試乗した。さらに学生を引率した入隊訓練が5回繰り返されていく。
彼を取り巻いていた「故知れぬ鬱屈」は〈2・26事件〉という遠景を引き寄せて、明らかにある方向へ向かって急速に転調していった。
=この項続く
標題図版 映画『憂国』より 三島由紀夫が企画、脚本、演出、主演