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美の来歴◆54 バレエと踊り子の画家の〈ユダヤ〉と〈愛国〉 柴崎信三

「ドレフュス事件」が映したエドガー・ドガの晩年


 「ドレフュス事件」が起きた1894年、画家のエドガー・ドガは60歳だった。
 「奇妙な男、病弱で、神経質で、眼病患者、視力を失うことを常に恐れている。しかし、まさにこの点によって極度に感じやすい人間」。同時代の作家、エドモンド・ゴンクールが評したそのころのドガは、すでに屈託した老いの坂の途上にあった。
 バレエの踊り子たちの美しい群像で知られた画家はその10年前、寄る辺ない晩年の不安を友人の彫刻家にあてた手紙のなかで憚るところなく記している。視力の低下に伴う身体の失調が画家の老いの憂いを募らせ、表現への自信を揺るがせていたのだろうか。

 〈ああ、あれほど自分が強いと思っていた時期、論理と計算に充たされていた時期はどこへ行ったのだろう。私はあっというまに斜面を降り、包装紙に包まれたような下手くそなパステル画にくるまれて、どこへともなく転がり落ちてゆく〉(アンリ・ロワレット『ドガ―踊り子の画家』遠藤ゆかり訳)

 だから、ユダヤ系の陸軍大尉ドレフュスの冤罪事件に画家が激しく動揺し、ユダヤ人排斥の激情を爆発させたのは、老いがもたらす画家の不安の代償だったのかもしれない。


 敵国ドイツに国家機密を提供したとして、1894年にスパイ容疑で逮捕されたユダヤ人でフランス陸軍参謀本部大尉のアルフレド・ドレフュスは、終身禁固刑を下されて仏領ギアナ沖の離島に収監された。しかしその後、機密漏洩の「真犯人」に陸軍少佐、エステルアジが浮上、軍法会議にかけられたものの、沸き立つナショナリズムと「反ユダヤ」の世論に押されて軍部は再審を見送り、「無罪」を言い渡されたエステルアジは英国に亡命する。
 一方、冤罪が明らかになった獄中のドレフュスが特赦でようやく釈放されるのは1899年、無罪判決が下るのは事件が起きてから実に12年後の1906年であった。

◆アルフレド・ドレフュス(1859ー1935) 
◆ドレフュス事件を描いた映画「オフィサー・アンド・スパイ」
(2019年、ロマン・ポランスキー監督)より

事件を背景にしたドガと古い友人との〈訣別〉は、起こるべくして起こった。
 1897年11月25日のことである。
 ドガは若い日から家族のように親しんできたドイツ系ユダヤ人の画家、リュドヴィック・アレヴィと夕食の席にいた。ドガを崇拝する息子のダニエルら数人の若者が同席していて、話題はおのずから冤罪の疑いが強まっていた「ドレフュス事件」に及んだ。

 ドレフュスの冤罪が明らかになり、エステルアジという「真犯人」が浮上して世論が沸騰する時節であってみれば、食卓の話題がそこに向かうのは自然の流れであろう。ドガを囲む食卓で暗黙の〈禁忌〉であったそれを若者たちが論じはじめると、ドガの表情が一転した。
 ダニエル・アルヴィがその場の情景を記している。

〈嫌な雰囲気を感じて、私は彼の顔をじっと見ていた。彼は口を閉ざし、たえず視線を上に向け、まわりの人びとと距離を置いているかのようだった。それはわれわれの理知的な言葉によって侮辱された軍隊、彼がその伝統と美徳を非常に高く買っていた軍隊に対する弁護だったのだろう。閉ざされた口からはひとことも言葉は発せられず、食事が終わるとドガは姿を消した〉(同)

 63歳のドガは翌日、アレヴィの妻のルイーズにあてた手紙に「私をそっとしておいてください。思えばたくさんのすばらしい時間を過ごしました。あなたの少女時代からのわれわれの愛情は、これ以上長引かせれば駄目になってしまうでしょう」と書いた。
 アレヴィ一家との古い親密な友情は終わりを告げ、「反ユダヤ的な芸術家」という刻印が没後にいたるまで、この華麗な「踊り子の画家」につきまとうことになった。

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 それにしても、官展に対抗して1874年に開かれた「第一回印象派展」の中心人物の一人で、優美な描線と色彩が繰り広げた〈踊り子の画家〉は、フランスの国論を二分する大きな争点となったこの事件を境に「反ユダヤ派」になぜ急速に近づき、〈差別〉と〈国粋〉という社会的な潮流に同調していったのか。
 ドガはパリの裕福な銀行家の家に生まれた。〈De Gas〉と貴族風の綴りを持ったが、祖父はフランス革命の際にイタリアのナポリに亡命して銀行を起こした新興ブルジョワ、米国ニューオルリンズ出身の母親は綿花取引で莫大な財を成した一族の出身である。
 普仏戦争に敗れてパリ・コミューンの混乱が広がる空気のなかでドガは官展の巨匠、ドミニク・アングルから線で描く人体の素描を学んだ。のちにたどりつくオペラ座の踊り子たちのポーズや競馬場のサラブレッドの躍動といった画題は、古典絵画が追い求めた人間や動物の解剖学的な造形を時代の風俗のなかに探ったものであった。

◆エドガー・ドガ『自画像』(1855年、カンバス 油彩、パリ、オルセー美術館蔵)

 しかし、その歩みは屈折している。
 歴史画や肖像画や風俗画を描き、写実絵画の新たな広がりを求めて取り組んだ作品を官展(サロン)へ出品したが、伝統と革新の間に揺れる作風は批判を浴びて容れられず、ドガは「サロン審査員諸氏への公開状」を公にして官展と訣別した。
 次に選んだ舞台は1874年4月15日、パリ・キャプシーヌ通りの写真家、ナダールのスタジオで開かれた第一回印象派展である。「画家、彫刻家、および版画家の協会」という名前のこの画家たちは、官展に対抗して明るい外光を画面に取り込み、陰翳や奥行きに代わる新しい筆触に大胆に挑んだ。伝統を否定したその造形の軽さから、皮肉を込めて呼ばれた「印象派」というグループの名前が、のちの美術史を飾るのである。
 ここでもドガは孤立した。
 同時代の画商のアンブロワーズ・ヴォラールが記している。

〈「外気の中で描く」という、モネとその仲間たちのモットーは、ドガにとっては、毎回印象派展に出品し続けたにも関わらず、呪いの言葉であった。モネの展覧会に顕れたドガは、コートの襟を立てて「風通しが良すぎるから、風邪をひかないようにしなけりゃね」と皮肉を言った〉(「ドガの思い出」東珠樹訳)

 モネ、ベルト・モリゾ、シスレー、セザンヌなど、印象派の旗揚げで歩みをともにした画家たちの作風はもちろん、多彩である。サロンに対抗して外気や自然や人物の肌合いを新たな手法で描く画家たちの潮流は、古典や歴史画から学んできたドガの鋭利で知的な絵画観とは必ずしも相容れず、この「現代生活の古典画家」とはむしろ異質ともいえた。
 「印象派」は画壇のスキャンダルとさえ呼ばれたが、ドガはその後4回にわたる印象派展に毎回出品を重ねた。守旧的な官展に抗して「呉越同舟」のような印象派展へかかわるなかで、彼が見出したのは「オペラ座」などの劇場や競馬場といった社交空間を舞台にして、同時代の風俗をあたかも映像のような自在な筆触で描く独特の世界であった。

エドガー・ドガ『ダンス教室』(1875-76、カンバス 油彩、パリ、オルセー美術館蔵


 オペラ座のバレエの練習風景を描いた代表作の『ダンス教室』を、ドガは第一回印象派展の前年に着手している。著名な振付師のジュール・ペローが見守るなかで、ポーズをとったり身支度をしたりする踊り子たちの動きが生き生きと浮かび上がる。
 詩人のステファン・マラルメやポール・ヴァレリーといった当代の有力な文学者たちが、ドガの踊り子や人物像を高く評価したことから、次第にドガの名前が注目されていった。
 ヴァレリーはドガが残した、さまざまなポーズをとる踊り子のデッサンの動いているいるような躍動感に強い感動を覚えて「ドガ・ダンス・レッスン」という評論を書く。

〈ドガには身振りへの奇妙な感受性があった。そもそも踊り子やアイロンをかける女を扱うとき、ドガは職業上重要な姿勢を取っている姿を捉えたが、それによって彼は人体の視覚像を一新させ、彼以前の画家たちが誰も関心を寄せなかったような数多くのポーズを分析することが出来た〉(塚本昌則訳)

 「彼は柔らかく横たわる美しい女たち、心地よいヴィーナスやオダリスクに、彼は目もくれなかった」と、ヴァレリーは続けている。第二帝政が崩壊して社会秩序は動揺している。そこに生きる人々の生身の姿を、あたかもドキュメンタリーの映像のように彼は描いて、モデルが動き出すような臨場感がそこにもたらされた。。

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 バレエの踊り子、婦人の帽子屋、アイロンをかける女、入浴する女、さらには娼婦にいたるまで、ドガがモデルとして描いたさまざまな女たちには、第二帝政の崩壊と普仏戦争の敗北という、カオスの時代へ向けた彼の仮借のないまなざしが投影されている。
 オーケストラボックスの神妙なオーボエ奏者を描いた「オペラ座のオーケストラ」では演奏席の上部で美しいチュチュ姿の踊り子が舞っている。競馬場や調教の場で歩みを進めるサラブレッドの姿にも、同じような画家の〈時代〉に対する視線が注がれた。
 こうしたパリの社交空間こそ、彼の美意識を掻き立てる故郷であった。ドガの姪にあたるジャンヌ・ファブルはそこに、革命後の社会の揺らぎのなかで「あたかも貴族のようにふるまう」という、ドガが表現のなかに抱き続けた反時代的な意図を見出している。

〈ドガの作品はすべてそうでしたが、当時の人たちが彼を誤解し、単なる写実画家であるとか、俗悪な生活を臆面もなく描く画家であるなどと考えていたのですが、ドガ自身は生まれつきのブルジョワだったのです〉(「ドガの思い出」)

 より正確にいえば、フランス革命のときにナポリに亡命し、銀行を起こした祖父のイレール・ドガがもともと王党派の末裔だったということもあり、画家のなかには伝統と保守主義への根深い確信があったということである。
「印象派」をはじめとする新しい動きが広がり、フランス社会が揺らぐなかで、彼の守旧的な立場は足場を失おうとしている。普仏戦争に敗れて祖国は莫大な賠償金を背負い、アルザス・ロレーヌという領土を失った。国際的な金融資本の台頭などで、孤独な不安を抱えるドガのなかの「反ユダヤ」という通奏低音が響きだすのである。

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 印象派の画家たちが「ドレフュス事件」に際して取った反応はさまざまだった。
 作家のエミール・ゾラが「私は弾劾する」という論文を新聞に発表して、ドレフュスの無実を訴え、冤罪を押し通す軍部を激しく糾弾すると、ユダヤ人のピサロはモネとともにそろってドレフュス支持を鮮明にした。シニャック、ヴァットロン、メアリー・カサットらもこれに同調した。一方、セザンヌやロダン、ルノワール、そしてドガは「反ドレフュス」の立場をとった。画壇はこの事件で二分されたのである。
 ドガのユダヤ人に対する偏見はもともと根強くあった。
 画商のヴォラールは回想のなかでこのようなエピソードを伝えている。

〈ドガ もう君には用はないよ。
モデル でも先生は、私のことを、ポーズをとるのがうまいと、いつもおっしゃっていたではありませんか。
ドガ それはそうだが、君はプロテスタントだからね。プロテスタントとユダヤ人はドレフュス事件に関係があるんだ〉

 ドガが内面に抱えたユダヤ人に対するこうした感覚は作品にもあらわれる。
 1879年の「舞台の上の友人たちの肖像」はドガの幼馴染の親友で、ドレフュス事件を機に訣別する作家のルドヴィク・アルヴィとプーランジェ・キャヴェが、オペラ座の舞台のそでで向き合って話している場面である。

◆エドガー・ドガ『舞台の上の友人たちの肖像』
(1879年、油彩 カンバス、パリ、オルセー美術館蔵)


◆エドガー・ドガ「証券取引所にて」
(1879年頃、油彩、カンバス、ぱり、オルセー美術館蔵


 山高帽に黒のコートで雨傘をステッキにしたアルヴィの姿は、どこか所在がなさそうでもあり、ドガの視線はユダヤ人の孤独なたたずまいを通して彼らとの「友情」のゆくえをみつめているようにも映る。
 もっとあからさまに「ユダヤ的なもの」を時代の空気のなかに描いているのが、1879年の「証券取引所にて」である。
 ここに描かれているのはユダヤ人の銀行家で、投機家だったエルネスト・メイで、やはり山高帽に顎髭をたくわえて後ろを振り返ろうとしている。背後の男が親し気に肩に手をかけて、相場の情報をひそひそと伝える。これは株式の売買の現場である証券取引所を舞台にして、モデルの身振りを通して投機という人間の行動の瞬間をとらえたという点で、オペラ座のバレエの踊り子を描いたドガの作品ともつながっている。
 それ以上に、この絵が観者に働きかけているのは、同時代の金融取引という経済行為が映し出す「ユダヤ的なもの」へ向けたドガのシニカルなまなざしである。

 ドガは印象派のなかでもユダヤ人のカミーユ・ピサロをはじめ、少なくないユダヤ系の友人たちとはそれなりの親しい交友関係を持続していた。しかし、1894年のドレフュス事件を境に次々と断ち切った。この「現代生活の古典画家」が拠り所としてきた伝統的な美意識への危機感が、「ユダヤ人排除」の決断を促したのであろうか。

〈しかし、もはや誰もいない‥‥。君主も、偉大な司教も、全能の領主たちもいない―自分のための宮殿、庭園、教会、墓所、宝石や家具、誇りのための、悔恨のための、娯楽のための記念物、貴重でもあり独創的でもあったそうしたものをつくらせる力をもっていた人々は、もはやいないのだ〉

ヴァレリーは「ドレフュス事件」でドガが直面した「時代」の変容を、このような眺めのなかに読み解いている。

 視力を失い、交友を絶って孤独に閉じこもるようになった晩年のドガをある日、画商のヴォラールが晩餐に誘うと、一人暮らしの気難しい老画家はこう返事した。

 〈もちろんお邪魔するよ、ヴォラール。ただ、いいかね、バターを使わない料理を私のために用意してくれるかい。テーブルの上には花を置かず、7時半ちょうどに始めること。猫は閉じ込めておいてくれ。誰も犬は連れてこないだろうね。女性が来るなら香水はつけてきてほしくないよ‥‥ああ、明かりは弱くしてほしい。私の目はまったくあわれなものだから!〉

◆標題図版 エドガー・ドガ「エトワール」(1876年、油彩 カンバス パリ、オルセー美術館)


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