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足りないのは「気合い」

合気道の知り合いにSさんという人がいます。
他の道場の人で、しかもそちらでは人を指導をするような立場にある人ですが、ちょくちょく稽古に来てくれます。

そんなSさんとは帰りの電車が一緒になるため、よく話をします。それで、Sさんがよくいうセリフが「気合いですね」です。

私 「どうやったらもっと受けが上手くなるでしょうか?」
Sさん 「気合いですね」

私 「どうやったらもっと力を抜いた技にできるでしょうか?」
Sさん「気合いですね」

私 「どうやったらもっと体力が続くようになるでしょうか?」
Sさん 「気合いですね」

合気道に関する質問に対してだけでなく、家庭のことから、仕事のことから、人生全般に関することでもともかくよく「気合いですね」が返ってきます。

「なんだ。ただの脳筋か」

と思った方、早計です

色んな細かい理屈や手法は当然こちらは知っているものとしてSさんは話しています(たぶん)。その上で最終的に重要なことが「気合い」だと仰っているのです。

また、仮に理屈や手法を知らなかったとしても、稽古を継続してくればわかってくることがほとんどです。そして、稽古を継続するために必要なのは小理屈ではなくて「気合い」なのです。

Sさんの「気合いですね」は実践をしないで理屈ばかり捏ねていても何にもならないというメッセージなのです(たぶん)。理屈を教えても実践されなければ、何も習得することなどできないのですから。

世の中は賢く生きること、効率的にスマートに生きることが持て囃されています。もちろん、無駄だとわかりきっていることをする必要はないと思います。しかし、無駄かどうかは実践しないとわからないことも多いのです。とにかく実践することを重視するならば、「気合い」重要は自然の帰結とも言えます。「気合い」重要。つまり、小宇宙(コスモ)重要、なのです。

賢く生きるというような言説をのたまう人達が成長というものについて勘違いしていることは、彼らが成長とは予め価値がわかっているものをカタログから選ぶようにして手に入れたり、身につけたりするものだと考えていることです。違います。成長とは、成長する前の自分には価値がわからなかったものを手に入れた後で事後的にその価値に気づくダイナミックなプロセス、なのです。

事前には価値がわからないものですから、効率的にこなそうといっても無理があります。成長によって、自分自身が価値だと感じるそのモノサシ自体が変容していくわけですから、全体を俯瞰するような成長計画など立てられないのです。つどつどの限られた情報、理解から、次の一手を実践していくことでしか進行しないという意味では先日の note に書いた、テストの探索的推論と同じです。

神ならぬ人の身では、実践を通してでしか世界の理解を押し広げられないのです。神なら「気合い」はいらないでしょう。でも、私達は不完全な人間ですから、実践を行う必要があり、わからない未来に向かって飛び込む意思、つまり「気合い」が必要なのです。

私達に足りないものは、理屈やハウツーではありません。そんなものは世に溢れかえっています。足りないものは「気合い」です

※ もう一つ、Sさんの「気合いですね」にはメッセージがあると考えています。それは「自分で考えましょう」ということです。自分で考えるしかないことに迂闊に下手な回答をするよりは「気合いですね」と返した方が何倍も親切、誠実だと私は感じます。

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