立木義浩 Talking About 舌だし天使
ShINC:『舌出し天使』どのようにして出来たのですか?
立木:当時、有楽町から竹橋に移転した毎日新聞社の裏に古い建物があって、如水会館だったか?そこで山岸さんと食事している時に「なんかやるか」って話になったんだよ。その頃は特集と言っても多くて6ページとか8ページだったので「沢山くれればやりますよ」って言ったら、それに山岸さんが「カチン』と来たのか「どれ位出来るんだよ?」って言うので「バンバン撮るからページたくさん取ってくださいよ!」って言ったら「分かってるよ、ちゃんと撮れよ!」って事で始めたんだよ。
世の中には「ひょんな事」ってあるじゃない、それだよ。まあ大雑把に要約するとこうなるけど、阿吽の呼吸があったかも知れない。山岸さんに聞けば印象は全く違うかも、、、。
ShINC:撮影には何日位かかったのですか?
立木:アドセンターで仕事しながら撮ったので1週間位かな?ほぼ撮り終わった頃に湯沢に行ってあの雪のシーン撮ってその前にそれに使う写真撮っておかなければならないしね。モデルの山添のり子は当時そんなに忙しくなかったから付き合ってくれたんだよ。ウエディングドレスを着て、飛んでいる撮影は大勢のモデルを会社の仕事でもないのに会社のスタジオで撮るわけにいかないので新宿の『南谷スタジオ』
を借りて撮ったんだよ。山添のり子以外のモデルはみんな売れっ子モデルでモデルと衣装の手配はみんな会社のファッションに強い女の子に「頼むね、よろしくね
~!」って感じでやってもらったんだよ。桜田通りにある明治学院大学の改築中の天井がない壊れた感じの建物で撮影したんだけど、普段からロケ場所に良さそうな所は気にしていた。この現場にシノ(篠山紀)が現れた。どういう風の吹き回しか山岸さんとシノと俺で「予告編撮ろう」と盛り上がった。予告編担当カメラマンのシノはは来るには来たけどカメラは持ってなくて視察だった。
ShINC:編集はどのように進められたのですか?
立木:構成の和田誠と解説の草森紳一は決まっていて、山岸さんが編集長に内緒でやっていた企画だから会社の編集部で出来ないのでイギリス大使館の近くのホテルの部屋を借りてやったんだよ。和田誠が写真見て「なんか文章入っていた方がいいよね?」と言うのでその翌日に寺山修司に写真みせて「こんな写真で本を作るんだけどなんか詩みたいの書いてよ」って寺山に頼んだよ。タイトルは解説文書いた草森
紳一が最後の写真を見てちょうどその時に読んでいた安岡章太郎の小説のタイトル
『舌出し天使』がいいんじゃないか?」というのでそれに決まったんだよ。
ShINC:表紙には『付録』とありますが本誌の巻頭になっていますがそれはなぜですか?
立木:それは俺にはどうしてだかわからないけど。山岸さんは、「カメラ雑誌を作るうえでの恒常的な悩みは写真家が自主的にじっくり取り組んだ仕事を発表する場合、写真集か展覧会しかなく極めて限られた人々の目に触れるにとどまるといった儚さがあります。カメラ雑誌は写真家の意飲作、実験作の紹介、新人の登竜門や一部には人気作家への花道まであって、コマ切れで雑多な印象を拭うためにじっくりと撮りこんだ、どっしりとまとまった写真を発表、鑑賞する場として「付録写真集」を企画しました」と言っているけど
俺にしてみれば付録でも別冊でもいいけどそんなページ数 (56ページ)があってそのすぐ後ろに石元さんと東松さんと長野さんの3人で羽田を撮ったページがあるだよ。それに天に唾するような事で「俺は東京には住めない」って感じだったね。
こっちも無知とはいえ無知じゃ許されない位のページ数だったからね。それより編集長ではない山岸さんがあれだけのページ数をやるにはかなりの根回しが必要だったと思うよ。おれも出版局のお偉いさんのところに連れて行かれて「よろしくお願いします」って挨拶させられたよ。その頃山岸さんは内ポケットに辞表入れていたと言う伝説があるね。
ShINC:山岸さんがそこまでして『舌出し天使を』やった理由は何だったんですかね?
立木:前例の無いことを組織の中でやってのける覚悟と来るべき写真の未来への希望がない交ぜになっていたのかな。詳しくは聞いていないし聞いたところで心情を吐露するとも思えないけど時代が背中を押したんじゃないかな?カメラ雑誌自体が停滞していた時代でそう言う事しなければならなかった。それに『毎日』対『朝日』の戦いみたいなものが背景にはあったと思うよ。
ShINC.MAGZINE-D創刊号より(2021年4月)