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ヴィレッジ岩屋顛末 第1章 三〇三号室 夕羽 第六話

 その夜は、新宿駅近くの安いビジネスホテルに飛び込みで宿泊した。夕食は食べてなかったけれど、吐き気がして食欲も湧かず、とにかく横になりたくて、コートを脱ぐとベッドに倒れ込んだ。
 ――あれは何だったのだろう。
 でも、これで上の棚の扉がよく開いていて、物が落ちていた理由がわかった。あの黒い髪の長い影。あいつが出てきていたのだ。あの狭い空間から。
 それを想像すると、夕羽の背筋が粟立った。アレは、夜中に頻繁に出てきていたのだろうか。恐怖と、得も言われぬ嫌悪感に涙が出てくる。自分の目で見たものが信じられなかった。
 ――アレは一体何なのだろう。

 混乱と恐怖で全く眠れる気はしなかったが、緊張が急に解かれたせいか、その夜は電気をつけたまま、いつの間にか眠ってしまっていた。
 翌朝は、いつものスマホの目覚まし音で目が覚めた。
取りあえずシャワーを浴びようと鏡の前に立った夕羽は、髪はぼさぼさで毛羽立ったゾンビのような顔色の自分を見て、思わず乾いた笑い顔になった。
笑ったのに、まるで泣き疲れた顔だ。そう感じて思わず大きくため息をつく。
 シャワーを浴びたあと、先輩の相川に連絡し体調不良で午前休を取った。

 夕羽は考えた末、マンションに一度帰ることにした。夜をマンションの部屋で過ごすことはできそうになかったが、服は着のみ着のままだったので、とにかく身の回りの物を持ち出す必要があった。そして、確証はなかったが、太陽が出ている朝や昼ごろなら、まだマシなのではないかと考えたからだ。
 今のところ、悪夢は夜にしか見ないし、昨日も夜の出来事だ。だから昼間のうちに荷物を運び出し、しばらく帰らないつもりだった。
 本当はすぐに引っ越しすればいいのだろうとわかってはいるが、引っ越して数カ月でまた次の部屋を探すのは経済的にも苦しい。とにかく今は、このマンションの部屋から距離をおいていたい。その間に、解決方法をできるだけ早く探すつもりだった。

 マンションの部屋に帰ると、付けっ放しの電気が白々と空間を照らしていた。一日居ないだけなのに、淀んだような空気になっていて重苦しい。夕羽はドアを開けた玄関で深呼吸をして、キッチンと寝室を通り過ぎてベランダに出ると、掃き出し窓を一気に開けた。
 十一月の朝の冷えた空気が、空間をかき回して重苦しい空気を流してくれる。
「よし」
 一声出して気合いを入れると、窓を開け放したままで荷造りを始めた。海外旅行用の大型トランクを引っ張り出すと、衣服や下着などを入れていく。季節は冬に向かっていたが、急に寒くなってもその時に買うことにしようと決めた。

 化粧品類を詰めていると、鏡の横にあるローチェストの上に飾っていた写真立てが、伏せられていることに気がつく。何気なく直そうと写真立てを手にすると、ガラス片が音を立てて落ちた。
「何、これ」
 表面のガラスが粉々に砕かれていた。少なくとも、昨日の朝に異常はなかったはずだった。そしてよく見ると、家族で撮った写真のなかの夕羽だけ、顔の部分が焼け焦げたようになっていた。
 夕羽はぞっとし、同時に、やっぱり、とも思った。
 この部屋に引っ越してから、この出来事が起こり始めたのだ。アレはやはり、この部屋に巣食っていることを、ようやく理解した。
そして、夕羽を狙っている。
 狙われる、ということがどういうことかまだよくわからない。ただ、この写真を見る限り楽しいことにはならないだろう。
 どうしたらいいのか全然わからないけど、まだできることはあるはずだ。あるはずと思いたい。

 写真立ては伏せたままにして、再び荷造りに戻る。
 トランクにできるだけ荷物を詰めて、玄関前に置いておく。冷蔵庫に入っている生もの類は、そもそもほとんどなかったが、ゴミ袋に入れてまとめた。マンションの共用ゴミ集積場はそれほど厳しくないため、このまま出してしまおうと思った。もし見咎められたら、長期出張に行くとでも言おう。
ベランダや窓を施錠して、早足でキッチンを横切り、玄関にまとめた荷物を手に取って、部屋を振り返った。
 部屋の中はカーテンも閉めているため薄暗く、よそよそしく見えた。
 この部屋には二カ月ちょっとしか生活していないけれど、自分の部屋を出て行くのは寂しくやるせない。しかも、この先の具体的なイメージがほとんど定まっていない状態で出て行かざるを得ないのは、不安しかない。
 でも、この部屋のどこかに、今も夕羽の動向を、息を潜めて見ているモノと生きていくなんて真っ平だ。
 夕羽は両手に荷物を抱え、玄関のドアを施錠した。ガチャンと鍵を閉める音が妙に耳に残る。

 大荷物を抱えて慎重に階段を下りていると、後ろからも階段を下りてくる足音が聞こえた。
 思わず振り返ると、同じ階に住んでいる女性だった。入居初日に挨拶したのは彼女だけだったので覚えている。
「あ、おはようございます」
 と夕羽は会釈した。隣の女性は卯月うづきという珍しい名字で、よく名前に間違われると言っていた。二十代後半くらいの、細面で細身、全体の印象が柳の木のような人だ。
「おはようございます。すごい荷物ですね」
 卯月も会釈して声をかけてきた。狭い階段を塞いでいるため、隅に避けながら夕羽は言った。
「すみません、お先にどうぞ」
「ありがとうございます。……これから旅行に行くんですか?」
 脇をすり抜けながら、案の定卯月が訊いてきた。
「いえ、長期で地方に出張に行くのでしばらく留守にするんです」
「そうなんですね」
 夕羽は言い訳を用意していてよかった、と密かに思った。不自然ではなかったはず。

 卯月は先行して階段を下りながら、夕羽がゴミ袋を持っていることに気がついた。
「よかったら、ゴミ出しておきますよ。その荷物でゴミ捨て場に行くのは大変でしょう」
 このマンションのゴミ集積場は、マンション脇の通路の先にある。昼間でも若干薄暗く、通路は舗装されていない私道のようになっていて、あまりいい雰囲気ではない。
 夕羽は恐縮して辞退しようとしたが、卯月が気にしないで、と言ってゴミ袋を持ってくれて、階段を先に下りて行った。
「ありがとうございます」
 下りて行く背中にお礼を言う。このマンションでは他の住人に会ったことはない。彼女は唯一話をした人だった。
ふと、自分の部屋で起こっていることについて、何か知っていることはないか聞いてみようか、という考えがよぎり、そのまま消えた。(――私の部屋にシンレイゲンショウが起こっているんです。何か知りませんか?)
 単なる隣人にそんな話をされたら、頭がおかしいと思われるだろうな。

 夕羽は、再び荷物を持ち上げると慎重に階段を下り、やっとのことでエントランスホールに着いた。息が上がって汗が滲んできた。
 呼吸を整えながら、ホールにあるメールボックスを覗くと、何通かの郵便物とチラシが入っているのが見えたので、まとめて掴んで持っていたトートバッグに突っ込む。これでとりあえずいいだろう。
 ふと、管理人室を振り返ったが、カーテンが掛かったままで案の定無人のようだった。「入村おめでとう」と言われた日から、一度も会っていない不気味な老女に一応挨拶するべきかと思った。でも、電話番号は控えているし、長引きそうなら連絡すればいいと思い直す。
 そのまま、マンションの表に出てみたがすでに卯月はいなくなっていた。ゴミを出してくれたあと、先に行ったようだった。
 最後に振り返り見上げる。十一月の肌寒い朝の光の中に、お洒落な外観の黒いマンションが素知らぬ顔でそびえ立っていた。改めて考えてみると、この建物に引っ越して来てからいい思い出がほとんどない。そう思うと忌々しく、眉をひそめた夕羽は踵を返して駅に向かった。

<第七話①に続く>

#ホラー小説 #ミステリー小説

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