ヴィレッジ岩屋顛末 第1章 三〇三号室 夕羽 第九話
「あれ……? ねえ、ちょっとそこの子!」
会社でPCのモニターを見ていると、同僚がフロアで声を上げた。結構な大声だったので顔を上げると、入り口のドアから外に身を乗り出している後輩の女の子が見えた。営業の男性が「何? どうした?」と声を掛けている。
「そのドアのところに小さい女の子がずっと立ってて。フロア内を見ていたんですけど……」
「女の子? こんなところに?」
「はい。でも、ここってパスがないと入れないですよね? ちょっと白っぽい薄汚れた服着てたし、どこから入ったのかなと思って声を掛けたら逃げちゃって」
入り口で訝しげに話す二人を見ながら、夕羽は嫌な予感に背筋を強張らせた。
(小さい女の子、白っぽい服……)
フロア内を見ていた。もしかしたら夕羽の方を見ていなかったか?
「安西ちゃん? どうかした?」
急に声を掛けられて、夕羽はビクッと反応してしまった。相川が心配そうに隣で見ている。
「あ、いえ、大丈夫です……。ちょっと驚いたので」
何とかそう答える夕羽だが、相川の視線はまだ夕羽に向いたままだ。
「顔色悪いよ。何か気になることがあるの?」
「……こんなところに、子供がいるなんて、ちょっと気持ち悪いなって」
顔が強張ったままなのを隠せず、相川から視線をそらしたまま夕羽は答えた。
「んー……別の階からの迷子かもね。下はセキュリティで入れないけど、それを抜ければ各階はスルーだし。それにしても『気持ち悪い』って。何か怖い話でも見たの?」
苦笑いして聞いてくる相川に、夕羽は曖昧に笑って「そうかもしれません」と言うのが精いっぱいだった。
(お守りがあれば、大丈夫のはず……)
他の人にもあの少女が見えていたかもしれない、そのことをどう考えればいいのか、夕羽にはわからなかった。
連絡を送ってから二週間ほど経つが、友人たちからまだ薫と連絡がついたという返事はない。薫は国立大の歴史や民俗を学ぶ学部に進んだと聞いたが、昔からふらりとどこかに旅行に行く癖がある。返事も気まぐれに返す質なので、すぐに連絡がつかないのは覚悟していたが、気ばかりが焦る。
家に帰れなくなってからの日課になった、カフェで閉店までの時間をつぶしていた夕羽は、ノートPCを開き、動画を流しながら仕事をしていた。ここから今日宿泊予定のカプセルホテルまでは五分ほどだ。
仕事用のchat通知が鳴り、先輩の相川からメッセージが入った。
〈お疲れさまです。昼間は調子悪そうだったけど大丈夫? それで、夜遅くにごめんなさい。明日設定した会議で、前に貸した資料を急遽使おうと思うのですが、用意してもらえますか?〉
貸してもらった資料というのは、夕羽が働いている会社での成功事例の中で、相川が担当した案件を独自にまとめたものだった。そういえば返すのはいつでもいいと言われ、自宅に持ち帰り、そのままだった。
(――しかも、あの家にある)
夜にマンションに行くのは危険だろうと思ったが、仕事に使うものを借りっぱなしだったのは自分なので、必要なら取りに戻るしかない。
〈お疲れ様です。ずっと借りていてすみませんでした。自宅にあるので、明日持って行きます。〉
この時間にchatを送るということは、相川も自宅で仕事をしているのだろうか。今はメールどころか、chatやLINEがあるのでいつでもどこでも連絡が取れてしまう。相川も結構な仕事人間だな、と苦笑いする。
夕羽は時間つぶしのためにPCを開いているが、相川は普通に仕事をしていそうだった。
共有のスケジュールを確認すると午前中の会議が設定されていたため、早朝にマンションに行くことも考えた。しかし、ちらりと時間を確認すると二十二時過ぎだ。ここからマンションの最寄り駅まで電車で二十分ほど。徒歩を足しても三十分あれば取りに戻れそうだった。
そう思い、片付けを始めた。頭の片隅で、鈍く警告がひらめいたが、目の前の責任感が勝っていた。
(すぐ行って取ってきて、すぐ出ればいい)
坂上駅に着くと、改札を出て地上に出る。駅からマンションまで七分ほどだ。部屋を出てからひと月以上は過ぎている。もう厚手のコートの季節になっていた。夕羽はコートのポケットにあるお守りを握りしめて、少し傾斜のある道を歩く。
こんな時間にこの道を歩くのも久しぶりだった。郵便物を取りに戻ることはあっても、夜中にこの道を最後に歩いたのは、マンションから逃げ出した日以来だ。
そのことに思い至り、心臓が大きく反応する。
マンションに帰らなくなり、お守りを常に身に着けるようになってから、怖い夢から遠のいていた。けれど……。
思い出してしまうと、じわじわと怖くなってくる。速足で夜道を歩くと、マンションまではすぐだった。
久々に見上げるマンションに、圧倒されそうになった。ここまでの道のりも、なぜかすれ違う人がおらず、まるで一人でマンションに立ち向かうような気持ちがする。たかだか五階建てのマンションなのに、そびえ立つような威圧感だった。
(他にも住人がいるんだから、気にしすぎだ)
夕羽は、少し緊張しながら人気の感じられないマンションの階段を上っていった。
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