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ヴィレッジ岩屋顛末 第1章 三〇三号室 夕羽 第十一話
夕羽はヴィレッジ岩屋付近の住宅街の中を走っていた。いつの間にか出た道が、あまり歩いたことのない路地だったので、一瞬方向がわからず迷子になりかけた。できるだけ明るいほうに向かうと、ようやく見知った道に出られた。
大音量で鳴っていた着信音もいつの間にか止んでいる。後ろを振り向いてみたが、あの少女が追ってくる気配はない。静かな冬の夜の風景に、拍子抜けしたような気持ちになるが、さっきまで恐ろしい状況にいたのだ。
そもそも、何もかもが悪夢の中の出来事のようだった。
街灯の下に立ち、息を整えながらコートのポケットをまさぐると、スマートフォンを取り出した。
ロック画面を見ると、見知らぬ番号からの着信だった。
(あんなタイミングで、誰かわからないけど……助かった)
時刻はもうすぐ日付が変わるくらいだった。まだそんな時間だということが信じられない。周囲を見回しても、真夜中の住宅街は人気がなく、青梅街道が近いはずなのに車の行き交う音はほとんど聞こえない。
(――私をおびき寄せるための、罠だったんだ)
あの、地下のような、夢で見る岩場を模したような奇妙な空間は、ヴィレッジ岩屋のどこかに存在したのか。パニックになっていて、周囲も暗かったので具体的な場所がわからない。中庭のどこかから出たようだった。確かに自分の部屋の前まで行ったことは覚えているが、そこからが曖昧だ。全身打ったような痛みで、記憶が混乱している。
しかし、一体どこからが罠だったのか? 相川からのメッセージがなかったら、今夜マンションには行かなかった。まさか相川にまでアレが干渉できるとは思えないが……。
ふと、どこかに逃げようにも、バッグを持っていないことに気がついた。マンションに行く時には肩にかけていたが、玄関ドアを開けた後に、どうなったか思い出せない。どこかに放り出してしまったのだろう。
(とにかく、スマホだけでも持っていてよかった……)
スマートフォン以外に持っているものはなかったかと、衣服をさぐると、コートのポケットに何か小さな固いものが触れた。
取り出してみると、会社の近くの神社で手に入れたお守りだった。そういえばこのお守りを握りしめてマンションに向かったのだった。
(もしかして、このお守りが少しは助けてくれたのかな)
そう思い、安堵の息をついた時だった。
手の中のお守りが、小刻みに震え始めた。驚いて凝視していると、お守りは音を立てて割けてしまった。すると手のひらで、次第に焦げたような臭いを放ち始めて、夕羽は慌てて落とす。そのまま、お守りの残骸は無残に煤けてしまった。
呆然と足元の残骸を見ていると、ふいに頭上の街灯が光源を落とし、瞬いた。
急に周囲が暗くなったことに気がつき頭上を見ると、他の街灯も一斉に瞬き、徐々に暗くなって、消えた。
周囲が暗くなると同時に、背後から身を切るような冷たい風が急に吹いてくる。
夕羽の頭の先から全身に鳥肌が立った。
思わず後ろを振り向くと、曲がり角の向こうから何か引きずるような音がわずかに聞こえてくる。
(まさか……マンションから追ってきた⁉)
街灯がない深夜の薄暗い道は、余計に視界を悪くさせていて、先までよく見えない。闇が、いたるところに凝っている。
祠のあった空間で嗅いだ鼻に残るような腐臭を思い出し、吐き気がこみ上げてきた。こめかみが痛いほど脈打っている。あの、腐った死体のような体で、まさか追いかけてきたのか?
角にカーブミラーが設置されて、鈍い光を放っている。周囲の少ない明かりが反射されているのに気がつき、目をすがめて見ていると、けたたましい音を立ててミラーが砕けた。
「きゃ‼」
驚いて身を縮めた。とっさに頭をかばって身を伏せた。
――恐る恐る目を開けてみる。体に痛いところは感じないが、破片は夕羽の近くの道まで散らばっていて、キラキラと光を反射していた。
すると、じり、じり、とガラスの破片を踏みしめる音が間近で聞こえる。
はっとして顔を上げると、視界の端に青く変色した足とボロボロの白い布が見えた。
胸が悪くなるような死臭が鼻に抜ける。体が動かない。
ごぼごぼと痰が絡まったような息遣いが聞こえる。
『――ガ、』
『ガ、カエ……』
じり、じり、
近づいてくる裸足の足
夕羽に覆いかぶさるように少女が立つ。
開いた口から、魚が腐ったような臭いが降ってくる。
『……カエ、……カエ、ロ……』
『……カエ、ロ、……ウ』
帰ろう。
――どこへ?
夕羽は無意識に訊いていた。帰るって、どこに。
わたしたちの
わたしたちのムラ
わたしたちのイエに
だってあなたはわたしたちのムラにニュウソンした
ケイヤクした
だからあなたはわたしのモノ
そうして、死臭のする体を夕羽の首に巻き付けた。
そのおぞましい冷たさと感触と重みに、夕羽の口から言葉にならない悲鳴が漏れた。
(気持ち悪い!)
(気持ち悪い……‼)
嫌悪感に体が動く。
夕羽は一心不乱に走り出した。
先に見える、人工的な光に向かって。ひたすらに。
大通りへ向かって走る。
恐怖と夜気の冷たさで目に涙が溜まって前がぼやける。
息が詰まって苦しい。首と背中に冷たい感触と重み。魚が腐った様な腐臭がすぐ後ろにあるが、振り向けば見えるモノを認識するのが怖くて振り向けない。
人気のない路地を走り抜け、大通りへ向かう真っ直ぐな道に出ると、夜の都会の光が見えた。
口から悲鳴とも歓喜ともつかない叫声が漏れ出た。
(助けて)
大通りへ向かって走る。一目散に。
(誰か助けて)
背中のモノを引き剥がして。
目の前が拓けて、無我夢中で走りこむ。
気がつくと、目の前をトラックのライトが眩しく照らしていた。
(ああ……)
(逃げられない)
衝撃に意識が途絶えた。
第一章 終
<第二章へ続く>