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ヴィレッジ岩屋顛末 第1章 三〇三号室 夕羽 第一話

帰る場所がない女性の話

 暖かい店内の窓際に座り外を眺める。寄り添う恋人や笑い合う数人のグループなど、行き交う人々が見えた。十二月の夜は、年末を迎える忙しなさと、どこかふわふわと浮足立つような楽しさに満ちている。

 時刻は夜二十一時を回った。渋谷からほど近い立地は、こんな時刻でも人通りが絶えない。カフェの店内にも、語り合う若者たち、会社帰り風の女性や男性、数人のグループから一人客まで様々だ。
 夕羽ゆうはビジネスバッグからモバイルPCを取り出し、Wi-Fiに繋ぐ。電源と無料のWi-Fiを提供しているカフェは、時間を潰すには持ってこいだった。同じようにPCやタブレットを開いている客も多い。この時間帯であればそれほど混んでいないため、長時間居座っても注意されることはない。

 遅い夕食は近くの定食屋で済ませたので、コーヒーだけで数時間すごせるのはありがたい。いつものようにYouTubeを立ち上げ、イヤホンを挿すと音楽再生しながら企画書作成を進めていくことにした。
 持ち帰り仕事が常態化しているわけではなく、会社でやればいい作業だが、最近は意図的に仕事を持ち帰り、眠くなるまで何らかの作業をするようにしていた。
 そうすれば寝にくい場所でも、疲れからか悪夢を見ないで済む。

 社会人になって三年目で引っ越しを考えたのは自然な流れだった。仕事の繁忙期を避け、ようやく会社に行きやすい立地のマンションに引っ越せたのは、つい二カ月ほど前になる。会社までドアtoドアで三十分弱。地下鉄を使い、会社の最寄り駅まで一本で行けて家賃も手頃な、掘り出し物の物件だと思ったのだ。

 内見の時のことを思い出し、夕羽は小さくため息をついた。
――あの時に感じた違和感を無視しなければよかった。

 夕羽は今の会社に新卒で入社して三年たった。まだベテランとはいえず、新人ともいえない。仕事は忙しくやりがいがある。実家は出ていたが、学生時代から住んでいたアパートは手狭で都心からは遠く、通勤時間が片道一時間半以上かかっていた。小さい規模ながら、デザイン事務所に就職できたのは良かった。しかし、定時に帰れることは数えるほどしかなく、終電ギリギリのことも多かったので、実際二年くらいはほぼ寝に帰るだけだった。
 仕事は覚えることが多く、大変でもあったが充実しており、周囲の人間関係もいい職場だ。でも、通勤時間が長いのは体力的にきつかった。

 物件巡りをしたのは、梅雨明けして、暑くなり始めた七月のさなかだった。都心のビル群は、照り返す日光をさらに暑く反射して、午前中からみるみるうちに蒸し風呂のようになる。事前にネットで予約を入れていたが、その不動産屋に歩いて行くことを考えるとげんなりする。
「あっつい……」
 夕羽はつぶやき、とにかく一刻も早く不動産屋に着くために足を動かした。

 駅から三分ほど歩くと予約した「たかの不動産」が見えてきた。大手の会社というよりは、地域密着型の会社という佇まいだ。複数のテナントが入るビルの一階にあり、外に向けて様々な物件が貼り出されていた。
 汗だくになりながら店舗に入ると、冷房が効いていて涼しさにホッとする。対応してくれたのは受付らしい女性で、名前を言うとパテーションの奥から男性の社員が出てきた。

「いらっしゃいませ、安西あんざい夕羽様。本日はお越しいただきましてありがとうございました」
「あ、はい。お世話になります」
 男性社員は本田ほんだと名乗った。事前にメールのやり取りをしていたので、スムーズに話は進み、似たような物件も数点見せてもらった後、三件ほどに絞り案内してもらうことになった。店舗近くの駐車場から車に乗り込み、一件目に向かう。

 三件はどれも予算内ではあったが、回る順番でいうと二件目が一番安い。駅からの距離は、三件目が少し遠い。
 たかの不動産から、希望する駅の周辺までは直線距離ではそれほど遠くない。ただ、このあたりは細かい道が入り組んでおり、車で移動するとすこし迂回しながら進むことになるのだとか。自分の実家がある市は、やはり都心と比べると道幅や家の庭先が広いので、車に乗っていると余計に道の狭さが気になる。

「一人暮らしの学生さんや若い会社員の方のための、単身者向けマンションやアパートは多くありますから、近くにコンビニなども多いです。安西様は自炊などされる方ですか?」
「あー、仕事が忙しいので、あまり自炊はできてないです。惣菜などで済ますことが多いかもしれません。嫌いじゃないですが」
 夕羽は答えた。ここ二年ほどは寝に帰るばかりで、家で食事もほとんどしていなかったため、当たり障りのない範囲にぼかす。知らない男性と車内でする会話は、若干気まずさがある。しかし、気詰まりにならない程度に本田が会話をしてくれていた。
「駅前にあるスーパーは二十三時まで営業していますから、結構便利だと思いますよ。忙しいと自炊は面倒ですからね」
 本田は笑った。年齢は同じくらいか、少し上かといったところなので、話しやすいのかもしれない。

 その部屋は、二件目にまわった一番安い物件だった。入り組んだ住宅街の中を進み、近くの駐車場に車を止めて三分ほど歩くと、急に拓けたような場所に出た。道路に面している部分に数本の木が植えられていて目隠しになっている。マンションの入り口は正面中央にガラス張りのドアが開いていた。
 全体的に黒に近いグレーのタイル張りで、所々アクセントのように赤のラインが入っている五階建てマンションだった。
――黒いマンション、と無意識に眉をひそめた。

「築年数は四年です。いわゆるデザイナーズマンションですよ」
 夕羽の反応を見ながら、本田が補足を入れた。部屋は三階だったが、エレベータはないらしく、中央の入り口を入るとすぐホールになっていた。簡単なオートロックが付いた内ドアが正面。左手にポスト、右手に小部屋があるのは、管理人がいるスペースらしいが無人だった。常駐はしていないらしい。
「管理人はオーナーの親戚で、複数の物件を日替わりで見ています。今日はいない日ですが、必要なら電話で呼び出してもらえれば対応してくれますよ」

 本田は説明しながら内ドアのオートロックを解除して、正面奥にある階段を上る。
「エレベータがないんですね」
 思わず夕羽がつぶやく。四階建て以上のマンションにはエレベータが付いているものだとばかり思っていた。
「付いていないマンションもありますね。マンションの規模がコンパクトになるので、意外と都心は多いかもしれません。管理費や共益費が安くなることも多いのでちょっとお得ですよ」

 本田は途中で息をつきながら話す。夕羽は(毎日上り下りだと面倒かもな)と、口に出さないで頭の隅で考える。
 建物の中は外気よりひんやりとしていて、階段を上ってもすごく暑いということはなかった。
 階段を上ると、各階は短い廊下で繋がっていて中央と左右にドアがある。三階の向かって一番左側、三○三号室が該当の物件だった。本田はドアを開錠しながら説明を続ける。

「この階は女性が住んでいますので安心してください。ちょうど更新が重なっていて、下の階の方は引っ越し予定です」
 本田は先にドアを開け、奥に歩いていった。築四年ほどで新しい部屋なのに出ていくのか、と思ったが、本田が先に進んでしまったので聞くタイミングを逃した。
 玄関を入ると、小さい備え付け靴箱が左手にあり、右手にキッチンと室内洗濯機置場があった。小さいダイニングスペースがあり、バスとトイレは別のドアになっている。キッチンを抜けるとすりガラスのドア、ベランダに面した八畳ほどのフローリングとクローゼットがあった。
「全体はバストイレ別の1DKですね。中はクリーニングが入ったばかりなのできれいでしょう」

 本田は夕羽を残してすぐに奥に向かい、窓を開けに行った。暑い中で締め切った室内だったせいか、少しこもったような臭いがしていたのに気がついた。本田は空気を入れ替えに行ってくれたようだ。同時にエアコンもつけてくれた。
 水周りは、横目で見た感じではきれいで年数は感じさせない。奥に進んでみると、フローリングの部屋は通常の長方形ではなく一角が斜めの台形のような形だ。

「変わった形の部屋ですね」
 夕羽は周りを見回しながら思わず呟いた。正面のベランダに通じる掃き出し窓と、左側の斜めの部分に出窓があり、室内は明るい。
「やっぱり気になりますかね。ここ、マンション全体が二等辺三角形みたいな形なんですよ」
 本田が言った。
「二等辺三角形?」
 夕羽が驚いて聞き返す。道路に面した部分からすると、全く分からなかった。
「ビルの左右に細い私道と公道が伸びていて。公道は一方通行なので車はほとんど通らないんですが、区画の関係でこんな形になってしまったようです。先代の社長が受け持ったので、私が担当した時にはすでにこの形でした」

 本田と夕羽は、正面の掃き出し窓から下を見下ろす。奥に向かって三角の頂点が伸びている形らしい。マンションの敷地のすぐ脇に確かに小さい道が見える。
 ベランダの右手に仕切りがあり、隣の三○二号室と接している。ベランダもよく見ると三角形だった。
「この変わった形のせいでなかなか借り手が見つからないので、オーナーの意向で立地にしてはかなり安い家賃になっています。水周りもきれいですし、内装もクリーニングされていて、おすすめですよ」
 夕羽は、白い壁紙とグレー地の天井の室内を見回した。床はビニールでプリントされたフローリングではなく、磨かれた木目が見える。インテリアも凝った雰囲気だ。この立地と広さならば、かなり掘り出し物かもしれない。
 夕羽の気持ちのメモリは、借りる方に少し傾いた。

 ふと、室内のどこからかお香か線香のような匂いが鼻先をかすめた。
がらんとした室内にはそぐわない匂いに、周りを見回す。
「なんか……不思議な匂いがしませんか? お香みたいな」
「え? 匂い?」
 本田が聞き返してあたりを見回す。すると匂いを感じたのか、目をすがめて眉をひそめた。
「……窓を開けたので、どこかの階から匂いが来たのかもしれないですね」
 独り言のようにつぶやくと、くるっと向きを変えて、キッチンの方に歩き出した。

「水回りなどもご覧いただきましたか? キッチンはIHなので火事の心配はあまりないのもいいと思います。それと、風呂は脱衣所付きなので便利ですよ」
 つられて夕羽もキッチンへ向かう。キッチンと風呂場、トイレなどを一通り見たが、クリーニングが入ったばかりとあって、埃なども見当たらず、かなり清潔そうに見えた。
「……こんなにキレイなのに、あまり入居がないんですか?」
 と、先ほど気になったことを訊いた。事故物件などの告知はなかったが、何となく気になっていた。

 本田は人好きする営業スマイルを浮かべた。
「ここは単身者か、場合によって二人入居可のマンションなので、更新が重なることが多いんです。まだ四年しか経ってないのですが、人の出入りは多いかもしれません」
 夕羽は、そんなものか、と納得した。何か事件などでない限りは、自分もどうせ帰宅が遅い上に寝るだけなので、あまり気にしなくてもいいのかもしれない。
「じゃあ、もう一軒も行きましょうか」
 と、本田が促したのを契機に、夕羽は玄関に向かった。

<第二話に続く>

#ホラー小説 #ミステリー小説

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