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ヴィレッジ岩屋顛末 第1章 三〇三号室 夕羽 第十話

 三階の短い通路を歩き、自分の部屋の前に立つ。開錠してドアを開けると、目の前の空間が真っ暗だった。
(え?)
 夕羽は驚いて、一歩踏み出した姿勢のまま止まってしまった。確かにほとんどの家電のコンセントは抜いていたが、ブレーカーを落としたわけではない。カーテンを閉めたくらいでは考えられないほど、部屋の中が、物の位置もわからないくらいに真っ暗なのだ。
(――ここは)
 ここはまずい、危険信号がひらめいて踏み出した足を引こうとした時、ふいに後ろから背中を押されて衝撃でバランスを崩した。
「え⁉」
 とっさに手を突こうと前に出した手のひらは、玄関の床を触らない。床だと思った場所で手は空を切り、真っ暗な空間を前のめりで落下する感覚。
(――落ちる!)
 前傾姿勢のままバンランスを崩し、一瞬落下すると強い衝撃が夕羽の全身を襲う。
 そのまま、暗闇を転がり落ちていった。


(――どこかで何か燃えている)
 ぼんやりとした意識の中で、何かが燃える匂いがした。昔、家族でどんど焼きに参加したことを思い出す。小学四年生か五年生あたりだったか。
 正月飾りを集めて、近所の神社に持っていき焼いてもらうのだと、母親が言っていた。近くの神社の敷地内に、キャンプファイアのように木や竹が組まれていて、周囲には様々な正月飾りがやぐらに沿うように置かれている。
 周りを取り囲む人垣に混ざり家族で立っていた。夕羽は何かが始まる予感にワクワクしていた。

 しばらく見ていると、何人かの男の人が長い竿のようなものに点けた火を、正月飾りで囲まれたやぐらに点火した。炎はあっという間に燃え広がって、周囲の正月飾りを炎の舌で舐めると、見上げるやぐらの高さまで燃え上がった。
 自宅で見る火はキッチンコンロくらいだった夕羽は、初めて見る炎の勢いと大きさに奇妙な高揚感と恐ろしさを感じて、母親の手をずっと握っていた。
 幼い自分を遠くに思い出しながら、天にまで届く炎の熱と、神様の元に還る捧げ物の燃えるさまの恐ろしさを思う。
 生き物のような炎と、感じたことのない熱、物の燃える臭い。


 次第に意識がはっきりすると、初めに感じたのは体の痛みと、木が燃える匂いだった。
 それから徐々に、自分が土の地面の上に横たわっていることがわかった。生臭い日陰にあるような腐った土の臭い。目を開けると薄暗くぼんやりと周囲が見えてくる。
「……ここは」
 ゆっくりと起き上がり、周囲を見渡す。打撲したような痛さを体中から感じるが、そもそもどうしてここにいるのか、すぐには思い出せなかった。
 周りは狭いビルの隙間の路地のように壁が迫っていた。地面に横たわっていたが、振り向くと少し先に小さな篝火が見える。篝火が照らすのは石でできた小さな祠のようなものだった。
 木が燃える臭いは、篝火からのようだ。
 ふいに、自宅の部屋に向かっていた自分を思い出した。
――玄関ドアを開けたのに、どこかを転がり落ちてきた。自分の部屋の玄関が、どこか違う場所に繋がっているなんてそんなことありえない。

 ゆっくりと、足元から這い上るように震えが広がっていく。自分は今どこにいるのか、夕羽には全く分からず混乱して泣きそうになった。
「……ねえ、誰かいませんか?」
 震えながら、小さく声を出してみるが、のどに引っかかったようなかすれた音しか出てこなかった。
「ねえ……! 誰か!」
 もう一度呼び掛ける声は、周囲に反響するだけだった。
 周囲に迫る壁は黒ずんだ黴で覆われていて圧迫感がある。その壁を上に向かって視線を送ると、壁に明かり取りのような小さなくぼみが規則的に開いていた。
 真上を見上げてみれば、遠く見えるのは夜空だと気がつく。

 ビルの隙間に落とされたような、奇妙な空間だった。そして、よく見ると空は二等辺三角形に切り取られたような、人工的な形をしている。
 その情景は、ふと、夢の中に繰り返し現れる山中の祠を思い起こした。空間の広さや状況は違うけれど、周囲を壁に囲まれたいびつな三角形と、小さな石の祠がそっくりだった。
(まるで、あの祭場を真似たかのような)
 そう考えたとたん、首の後ろが総毛立ったようになり、心臓が恐怖でぎゅっとなったのがわかった。

『――ふう』
 ふいに、正面の祠あたりから何かが聞こえた。
 驚いて振り向き、祠の辺り見ると、後ろの陰になっている部分から聞こえたようだ。
「誰ですか?」
 少し距離があるせいか、祠の後ろには闇が凝っているようで人影が見えない。夕羽はゆっくり祠に近づいて目を凝らす。
 近づいてくる夕羽に反応したように、黒々とした影が身じろぎして動きだした。一つだけある篝火は小さく、祠の斜め前にあり、揺らめく炎は後ろの影を曖昧に見えなくさせる。
 少し離れたところから見る影は、うずくまった人のようにも動物のようにも見える。
「あの……」
 近づこうとした足が違和感を覚えてゆるく止まる。

 祠の大きさは夕羽の目線よりも低く、小さい。動き出した影が、その祠の影から頭のようなものを傾かせた。顔色の悪い肌と、濁った色をした目が覗く。
『――ニエだ』
 甲高いような、濁った声が聞こえた。
 途端に、背筋から頭の先まで総毛立つ。膝ががくがくと震えて思わずしりもちを着いた。
 この声に聞き覚えがある。
(まさか)
 夢の中で繰り返し、呪いの言葉を叫んでいた何か。
 なぜこんなところに。あれは夢ではなかったのか。
『――うれしい。ようやく来てくれた』
 濁った声の影は、ゆらりと動き出した。

 ぼさぼさの長い髪を揺らめかせて、身を起こしたそれは白い着物を着た少女のように見えた。体を覆うのはぼろぼろの汚れた布で、元の原型をかろうじて保っているだけだ。
 あたりに魚が腐ったような異様な臭いが漂う。
「……あ、あなた」
 その顔は夢の中で何度も崖から落ちてきた少女だった。
「なんで……⁉」
 夕羽は混乱と恐怖で吐き気がするのを、歯を食いしばって耐えた。

(――ここから逃げなければ)
(でもどこに逃げればいいの)
(出口は――)

 少女の顔をしたそれは、ゆらりと動き出した。体を引きずるように近づいてくる。どう見ても死体が歩いているようだった。
 蛇に睨まれたように恐怖で体が強張って動かない。
 まるで、悪夢のなかに迷い込んだようだった。
(――誰か)

 脳裏に強い目をした同級生の顔が思い浮かんだ。
 同時に、大音量でスマートフォンの着信音が響いた。
 夕羽は、はっとしてコートのポケットに入っていたスマートフォンの存在を思い出した。
 場にそぐわない電子音に、近づいてきた少女は顔を歪め、足を止めた。

 途端に、呪縛が解けたかのように手足が動く。
 夕羽はもがくように全身を動かし、電子音が響く中を逆方向に向かって走り出した。
『――待て』
 ゴロゴロと腹の底に響くような声が後ろに迫ってくる。
 首の後ろに追いかけてくる少女の存在を感じ、振り向きたくなる衝動を抑えて目の前の壁までたどり着くと、必死に出口を探した。
 瞬間移動でもしない限り、どこかにドアがあるはず。
 鳴りやまないスマートフォンの音に励まされて、左右を見ると壁に同化したようなドアを見つけた。
 夢中で取っ手を掴みガタガタと動かすと横にスライドするようにドアが動いた。隙間から手を突っ込み無理やり開口部を広げる。目の前には薄暗い階段が上に向かって伸びていた。
 夕羽は夢中で階段を駆け上がり、とにかく明るさを感じるほうに向かって走っていく。

<第十一話に続く>

#ホラー小説 #ミステリー小説

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