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三晋の歴史的意義と戦国の顛末2

戦国時代後半戦は、秦の一方的な攻勢と統一へと帰結していく。

秦は、黄河では魏と斉の決戦の背後を突き、長江では楚と越との戦いの背後を突く形で四川方面での対楚戦に勝利する。
ここに秦は、黄河上流と長江上流という2大河川の上流を押さえることとなった。

この後、三晋は、秦と斉という東西の巨大国家に挟まれることとなる。
だが、ここで斉が、燕を中心とする5カ国連合に蹂躙されたことで、その力を急速に喪失していく。

東の圧力が取り払われたことで、三晋の防衛指向は秦に向けられ、その役割は黄河中下流域を守る緩衝地帯と化していくこととなる。
南では、秦に圧迫された楚が、淮水方面の拠点化を推し進めていった。ここに西は秦、南は楚から、春秋史の主体とも言える黄河中下流域諸国が包み込まれることとなった。

戦国後半期にはいると、北方では、三晋のひとつである趙が、急速な拡大を見せたが、長平で秦との決戦にひきずりこまれたことで無力化されてしまう。
ここに黄河上流域と下流域とを分かつ、三晋の歴史的意義は失われた。
黄河、長江の上流からなだれ込んだ秦は、天下を統一した。

ところが、統治機構からの諸国の掌握に失敗した秦は、「楚」勢力によって滅ぼされてしまう。項羽と劉邦の登場である。

項羽も劉邦も旧楚の人、項羽は長江下流北岸地域、劉邦は淮水北岸地域の人である。いずれも春秋後期から戦国にかけて楚が拡張した地域であった。
そして、どちらも「楚」軍団から出現した人物であった。
 
秦は、中原に引きずりこまれたことで、結果として「楚」勢力に滅ぼされたのである。
その後の楚漢戦争は、いわば「楚」勢力内の決戦であった。
この「楚」勢力内での抗争が劉邦率いる漢の勝利に終わると、 項 襄、項伯、項它ら項羽の一族は許され、その後の功績で劉邦と同じ「劉」姓が与えられている。

「楚」勢力は劉氏の漢に収斂された。
つまり、「楚」の後継者である漢によって、戦国は終止符を打たれたと言えるのである。

*ヘッダー画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dusk_on_the_Yangtze_River.jpg

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