糸
『はい。お待たせいたしました。やまぐち皮膚科です』
電話をうけた受け付けの女性の声はひどくあせっているように感じたのはやはりあせっていたわけでどうしてそれがわかったかといえば、ちょっと待ってくださいね。と告げてから待つこと8分。眠たくなるようなオルゴール音がやみ
『お、あ、お待たせしてすみません』
えっと、という声がし、もうなんでこんなに忙しいのくらいの声であやまりの言葉を告げたからだ。
『明日、10時なら大丈夫です。少しお待たせすることになりますがその時間くらいにいらしてください。はい。はい。お願いいたします』
電話を切りため息をひとつつく。『お待たせ』という単語をあの受け付けは何度口にしたのだろう。『お待たせして』『すみません」きっと毎日なんども口にしているに違いない。口癖のように。まあこれがいやこれも仕事なんだ。と割り切っているだろうに。けれども、わたしにはとうていできない。
ということで今日、わりと近所にある皮膚科にきている。
やっぱりな。まず待合室にはいり、そうおもい、受け付けの女性をみやる。
「えっと、はい。お待たせいたしましたぁ、」
あちゃーやっぱりいってんじゃん。笑いをこらえながらわたしは窓口に出むき、昨日予約したものですと名乗った。
「ああ、初診でしょうか?」
「いや、3年? 2年? くらい前にきてます」
2、3年ほど前にもきていたのでそうこたえる。
そうですか。じゃあ、初診とみなしますのでといわれてまた問診表に記入をする。書いて提出をするとお待ちくださいませとまたいわれて、いや、もう待つのは嫌だしあやまって欲しくもないし心がこもってないんだよ。よいしょよいしょだろ? ええ? という悪態を口の中で転がしぎゅうぎゅうパンパンの待合室の一角に腰掛ける。
皮膚科なので老若男女がわんさかいる。子どもも、いる。10時20分。おもてはすがすがしいほど冬の澄んだ日差しを含み、そして乾燥をしている。加湿器から白い煙がでている。
名前を呼ばれて中に入るとまた「ここに腰掛けてお待ちください」と看護師にいわれ「はぁ? また待つぅ? もう1時間も待ってんだけど!」と叫んだのは心の中であり
「はい。待ってます」
笑ってなくもない顔でそうこたえる。マスク生活もまんざらではないなと非常識なことをおもっているのはきっとわたしだけではない。
目だけで笑い、マスクで覆われた部位だけは無表情なのだ。
「だから、ねぇ、たるみが起こるんですよ」
ははは。やっと診察になりマスク生活の中でいまや実際に顔のたるみについて悩んでいるひとが以前の倍になったという。
「あ、ひさしぶりだね」
なんと先生はわたしのことをおぼえていたのだった。
「あ、先生ってわたしのことおぼえてるんですね」
なんとなくうれしくて訊いてみる。
少し間があり、なんの間だろうと不思議におもったけれど、先生はなぜかおぼえてますねと笑いながらそういった。
「また糸を入れにきました。そうです。たるみが気になって。いろいろと気になるけれど、やっぱりたるみですね。はい」
うーむ。先生はわたしの顔をみつつ、そうですね。まあなんぼんか入れてば、とカルテをみながらいい
「8本くらいでいいかな。まあきっと以前よりもバツグンに上手になってるはずだよ」
今度はわたしのほうをまっすぐみ、ふふふと微笑んでいる。
「え」
じゃあ。じゃあじゃあ前回した手術って失敗だったってこと? それとも実験台? ええ? という言葉が頭の中でぐるぐるとテロップみたいにまわる。
「こんどは、もっと上手になってるからね。たのしみにしてて」
先生はまたふふふと笑い、タブレッドでわたしの顔の写真を撮影する。斜め横の顔。その反対の顔。真正面の顔。ここをみて。そういわれた穴をじっとみつめる。そんなににらまないで。にらんでいたおぼえなどはないけれど先生に指摘され、眉間にしわが寄っていたことをしる。
「じゃあ、来月ね」
「あ、はい。お願いいたします」
そのご、看護師さんの説明をうけ、前金を払い、また異様に混みあっている待合室の空いている席にすわって会計を待っていた。やっと名前を呼ばれ、手術の予約確認をし、診察券をもらい、やっと混みあっている病院から這いでるように外にでる。はぁーと空気を肺に入れそして吐きだす。
「つかれた……」
つい、声がもれた。太陽が真上にあり、時計を確認するともうお昼だった。やれやれ。車に乗り、お昼ご飯をどこかで食べようかなと思案をしているとき、LINE電話がなり、びっくりして電話にでる。ヒカルくんからだった。
「もしもし、俺です」
オレオレ詐欺ぃ? わたしはクスクス笑う。
「そうです。オレオレ詐欺」
ヒカルくんの声は震え笑いをこらえているようだった。が、寒くて。いま、バスを待っているんですよぅ。寒さのおかげで声が震えているのだった。
「どこにいるの? むかえにいこうか?」
うん。きてください。といわれたらどうしょう。と最悪の事態を想定しつつ訊いてみる。
「あ! バスがきましたぁ! てゆうか、あやさん、あとうちきませんか? 俺もう仕事終わったんですよ。なので、待ってますぅ。あ、もうバスに乗るので切りますねぇ〜」
なにひとつなにもいわせないヒカルくん。すげーなぁと感心をし、けれどむかえにきてといわれないでよかったな。と胸をなでおろす。ヒカルくんはいま、車がパンクをしていて足がない。足がなくて不便じゃないのかな。そう訊いたら、まあそうですけどね。なんかないならないで慣れつつありますね。なんとかなりますし。というおもしろいこたえが返ってきて、ウケるといいわたしは大笑いをした。
マックに寄ってからいきますね。とLINEを打つと、僕のぶんもなにか買ってきてください。なんでも食べますというこれまたおもしろいLINEがきて頬が緩む。ああ、だから顔のたるみがおこるんだなと痛感をする。
マスク生活になり、顔にいつになく緊張感がなくなった。顔が、だらしなくなった。あまりお化粧もしないし、元々が無表情だったのに余計に無表情になり顔の筋肉を動かさないため、たるみが起きた。老化もある。2、3年前にモニターでおこなった、スレッドリフトをだからまたやろうとおもい皮膚科にいったのだ。その皮膚科は皮膚科がメインの美容外科だけれど結構有名で遠方からでもたくさん綺麗になりたい女がソロゾロとくる。その綺麗になりたい女の一部でもあるわたしのことをおぼえていてくれたのはとても不思議だった。
頬に特殊な糸をいれ引っ張るという手術だ。局部麻酔でダウンタイムはやく3週間。いちどはしたことのある手術。けれどもうすっかり糸の役目はなくなり、手術の記憶も曖昧になっている。糸は約1年くらいで消滅をしますというのはさっき先生に訊いてはじめてしった。
ドライブスルーではなく店舗に入り、ゴディバのホットチョコレートが真っ先に目にはいり、カスタードパイとホットチョコレートのSとダブルチーズバーガーのセットのコーラーでを頼み、受け取って車に戻り、すぐにホットチョコレートを開けて飲む。ひどく甘いのを覚悟してのぞんだけれど、え? と拍子抜けするほど甘くなくとても上品な味だった。ヒカルくんのほうについてきたポテトをつまみながらエンジンをかけヒカルくんのうちに向かう。車内はトイレの芳香剤のような匂いから一気にマック独特の匂いに置き換わる。鼻歌を歌いながらまたポテトをつまむ。だから、ヒカルくんのアパートについたときは半分以上ポテトを平らげていた。
「おじゃまします〜」
ドアはいつもあいている。そっと部屋にはいっていくとなぜかベッドでヒカルくんが寝息を立てて眠っていた。きたよ。そんなふうに鼻の頭をボタンのように押しても押しても起きなくて、マックを汚いテーブルの上に置き、テレビの音量を下げ、寒いからヒカルくんの横に横たわり布団をひっかぶる。起きるかな。起きるよね。起きてほしいな。そうおもいつつ布団にはいってもまるで起きる気配はなく、天井をじっとみつめる形になり、だからじっとみつめ、ときおりはいるヒカルくんのLINE通知を聞きながらいつのまにかそんなつもりなど皆目なかったのに、睡魔におそわれ眠ってしまった。ようだった。
はっと目を開け、いまの状況がまるでのみ込めず、テレビの明かりが明滅していてまたはっとなり横をみるとまだヒカルくんはまだ眠っていた。動けない。それに足が腕が痺れている。いったいなんじ間眠っていたのだろう。体が軽い。こんなときに爆睡をしたようだった。
「あ、」
わたしが最初に声をかけたのか、ヒカルくんが声をだしたのかはわからない。それ以降は声はなくただ無言でお互い裸になりいやらしい行為をした。バカみたいに声をだしバカみたいによだれが垂れた。10個も下の男。わたしはその男のもの受け入れ、そしてバカになった。
「20時です」
「え」
マック買ってきたんだよ。はい。食べる? はい。 よいしょ。ヒカルくんは裸のまま立ち上がり電気をつけ、テーブルの上にあるマックの袋からおもむろにハンバーガーを取りだし食べだす。
「あやさんは? 食べたの?」
ベッドの上でまだ裸でいるわたしに声をかけたようだったけれどヒカルくんの目はもうテレビに向いたままだった。食べてないけどね。といおうとしてやめた。
「冷めてるでしょ? チンしないの?」
「レンジも壊れてます」
嘘でしょ? と目が飛びでそうなくらいの大きさでいう。パンクもしてるのにね。とどうでもいいことをつけ足す。
「パンクはしてますけどね。ははっ。嘘です」
嘘だった。ただ、チンするのがめんどくさいだけだったようだ。どうでもよかったけれど、すごく昼寝しちゃったし、こんなんじゃあさ、夜眠れないかもだよ。というと、あやさんなら眠れるでしょ? となんの根拠もないことをいいつつ笑う。
「なにそれ」
「なんだろうね……」
いやらしいことをしにいったからその行為が終わるといつも帰りたくなる。べつに喋るほど会話があるわけではない。帰りたくなる? どこに? うちに? わからない。
「来月、」
そこまでいうと、あちゃー、こぼしちゃったぁとヒカルくんの声がしてメガネをかけてみてみるとコーラーを汚いテーブルの上にこぼしたようだった。ティッシュで雑にふき、お札がぁ、まずいとかなんとかいい、なにかいいませんでしたかと促されたので
「ああ〜、誕生日でしょ? なにかほしいものあるかなぁーって」
ほほう。そんなふうな感じでテーブルを拭きながら、んん〜とうなり、ないですねぇ〜とつぶやき、ないなぁとひとりごち、ないですね。と締めくくる。
「あ、でも、チャリがほしいかな。自転車です」
「あーバイクね」
わざとボケてみると、ヒカルくんはバイクでもいいなあと笑う。
「チャリね。ママチャリでもいいの? ほしい?」
「うん」
いつもは、はい。とか。いいえ。とかいう敬語口調なのだけれど、たまに、タメ語になり、甘えてくる感覚は嫌じゃなくて心地がいい。母性本能をくすぐられる。なにせ10個も年下だし、10年もしっている。
「ヒカルくん。もう帰るね」
「はい」
おもてにでるともちろん真っ暗で、駐車場にはヒカルくんのグレーの車種がわからないけれどパンクをした車がじっと息をひそめて停まっていた。ずいぶん乗ってないのだろう。ホイルは錆びていたしグレーの車はあまり汚れが目立たないのが特徴なのにその独特の特徴をまったく生かしてはなかった。
「あんたさ、ヒカルくんのうちの中にあるテーブルみたいに汚いね」
ぬぼーっと立ちつくしながら車に声をかける。
「わたしがさ、チャリを買ってあげたとするでしょ。そしたらあなたずっとこのまま。汚いまま」
車は黙っている。なにかいいかえしたらどう。そうだなぁ。例えばさ、チャリ買わないでとかそういうこととかさ。
きっと、わたしは自転車を買いヒカルくんにあげるだろう。
夜空にはたくさんの星がキラキラと輝いており、いまにも降ってきそうで、そしてめちゃくちゃお腹が空いていて。
ヒカルくんの車は汚くて。けれどもっと星をみていたくその場に8分くらい棒のように立っていた。
糸を入れる日がちょうどヒカルくんの誕生日だったということをうちに帰ってから気がついた。
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