生きる意味について悩んだ時間が僕を助ける

ふと思い出したこと。生きる意味とはなんなんだろうと悩み、考えを巡らせ続けた高校3年生の秋。

今なら明確に言うことができる。
が、当時の自分にはどうしてもわからなかった。なぜ自分は生きているのか、これからどうしていけばいいのか、生きる意味なんてないから今死んだってよくないか?などと考えていた。

なぜこんなことを考えていたかというと、大学受験から目を背けたい、という思いもあっただろうし、2年半続けた部活を夏に引退して1人で考える時間が増えたからだ、とも思う。
受験勉強のために図書館に入ったはずなのに、気づけば哲学書を手に、答えがどこかにあるはずだと、何冊も本を読んだ。

結果として、生きる意味はないことに気付く。
外部に自分の存在意義を求めても、そんなものはどこにもない。
自分が自分の中に自分の生きる意味を作り出さないといけないのだ。
もうどの哲学書かも覚えていないが、ある哲学書の一説で、腑に落ち、納得した。

親から無条件の愛をもらって育てられ、意味なんてなくてもお気楽に生きられる時間は終わりを迎えようとしていた。
子どもから大人になる瞬間というのは、数多にあると常日頃感じているが、この思考の転換もまさにその瞬間のひとつだった。

今後は誰かに与える立場になっていく。与えることが生きる意味になる。

そしてその生きる意味を自分の中に見つけることができ、行動できている人は幸せだと思う。お金や娯楽以上の幸せだと僕は確信している。

残念なことに未だに生きる意味は見つかっていない。
生きる意味を自問し、考え続けることこそ生の正しい営みなのだと、ある種の諦めを感じながら、今も気楽に、前向きに生きている。悩むことはなくなった。

普段は見えないが周りの人たちも、きっとこのようなことを考え、ひとつひとつ乗り越えているんだろうな、と思う。

ひとりひとりの、考え続ける人生に幸あれ。

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