哲学する態度を身につけたい
田中美知太郎(2007)『哲学初歩』(岩波現代文庫)を読み終えた。哲学について、やさしい文章で、かつプラトンやアリストテレスなどの哲学者の言葉も引用しながら書かれている。今まで幾らか哲学入門の本を読んでみたが、これは結構あたりだと思う。この本の冒頭部分で、哲学とは何か、哲学者とはどのような人を指すのかを論じる部分がある。哲学とは「知を愛する」などと表現されるが、それがどのようなことか書かれ、自分の態度を問い直すことにもつながる。
プラトンにとっても、ピロソピアーは何よりもまず、そのような愛好、愛着、偏愛にほかならないのである。酒好きがそれぞれの機会に、いろいろな口実をもうけて、どんな酒でも飲もうとするように、子供好きが、どんな器量の子供でも、それぞれに見どころを認めて、好きにならずにはいられないように、智を愛し学を好む者は、学問の好き嫌いを言わず、あらゆる知識を手に入れようとするような者で、頑健旺盛な知識欲をもっていなければならないとされている。ピロソピアーとは、その第一義的な意味において、この盛んな知識欲にほかならないのである。したがって、知識欲を失った人、学問探求の精神をもたない人、知識を手近かな目的への手段としてのみ評価しようとする人たちは、はじめから哲学に無縁の人であると言わなければならない。(12-13頁)
ここでいう「ピロソピアー」とは、言わずもがな「哲学」(Philosophia)のことである。酒好きがどんな酒でも飲もうとするように、子供好きがどんな子供に対してもよいところを認めて好きになろうとするように、学問の好き嫌いを言わずにあらゆる知識を手に入れようとする態度でいるということ。これは態度として哲学者的でありたいと思う自分にとって、大切にしたいと思えることだ。何らかの分野に限って知識を得たり考えたりするのではなく、様々な知識を変に限定することなく得ようとするような態度を持ち続けたいと思うう。
また哲学の本質について、プラトンはこのように考えていたのだという。
プラトンは、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかには仕方がないのであって、話したり、書いたりして、これを他に伝えることのできないものであると信じていたようである。そしてこのことを知らずに、それを書物に書いたりする者も、またそういう書物を読んで、何かわかったような気持ちになっている人々も、プラトンはまるで信用しようとしないのである。(132-133頁)
哲学する上で大切なことは、結局自分自身でいろいろやってみて発見するしかないということだろう。「こう読めば理解できる」「哲学とはこういうことが大切だ」という言説には意味がなく、そんなものを読んだり聞いたりするより、多少時間がかかるように思えても、自分で試行錯誤を繰り返しながら、考え見つけ出すことが、案外近道になるのだということだと思う。ここにはやはり、「徳は教えられるか」という問題と同じように、人間には根本的にそういった知識(哲学の大切なところについての知識)は備わっていて、それをどのように引き出すのかを考える必要があるという思想に行きつくようにも思える。とりわけ哲学に関しては、それが知識を得る態度に関することで根源的なものであるためか、自分自身で見つけ出すしかないということだろう。
ここで押さえておきたいのは、哲学入門書のような書物のことだ。プラトンはこれを否定するのだと思う。哲学を哲学史や哲学者の思想を簡単に解説しまとめるようなことで、理解できないという立場だろう。そこでこの本を考えてみる。これは所謂入門書ではないのか。これについては、解説での廣川洋一さんの「題名のなかの「初歩」が入門や手引きの意味として受けとめられるのは普通一般のことと思われるが、著者の気持ちに沿って言えば、それはむしろ求智哲学しなければならないことを強く勧告する「哲学のすすめ」の意味を荷っていた」(245頁)という指摘が参考になる。これは私の読後感も同じだったが、この本は俗にいう哲学入門書のような感じではない。哲学史を辿ることもなければ、哲学者を網羅的に説明するものでもない。ただ、哲学することを強く勧める。
プラトンの考える教育については、「引き出す」「思い起こす」ということが重要視される。
もし教育というものが、外から知識を授けることではなくて、自分でそれを見出させることにあるのだとすれば、教師は自分で知識をもっていて、これを外から注入する必要はないのであるから、いっそ余計な知識はもっていないで、ひとが知識を産み出すのを、わきにいて助ける方がよいわけである。みずから「何も知らない」と言ったソクラテスは、かえってこのような理想的な教師の立場を徹底させていたのだと言うこともできるであろう。(139頁)
『メノン』の中で、召使の少年に与えられた正方形の二倍の正方形の一辺の長さを見出すという問題を出し、問答を通して問題を解決する、という場面がある。これは教師の役割を考えさせられる。色々と余計な知識を持っていても、上手く教えられるわけではない。時には「私にはわからない」「知らない」という態度を見せることによっても、知識を学ばせ得るという。現在ファシリテーターとしての教師が注目されるが、子供たちの学習活動を促進させるというだけでなく、知識を引き出させるという意味でも捉えることが大切だろう。単なるショーを行うピエロであってはいけないということだ。
最後に、幸福と自由との関係について論じられた箇所をまとめてみる。
真の幸福は、自己の責任において選ばれた、自由にもとづく幸福でなければならない。すなわちわたしたちは、他から幸福にさせてもらうなどということは、ほんとうは不可能なのである。わたしたちは、自分自身で幸福になるよりほかはない。そうすると、国家社会を全体として幸福にするなどということは、全くの無意味となり、何がわたしたちを幸福にするのかという、最初の問題へ、わたしたちはもう一度もどって、そこからまた再出発しなければならなくなる。(210-211頁)
このような文章を読むと、「自由」というものがまた気になってくる。ジョン・スチュアート・ミルは個人の自由を他者の自由を侵害しない範囲で捉えた。自由と国家社会との関係はどのように捉えられるべきか。