看板を背負う
「しんさん、リレー取材のバトン受けてくんない?」
東京のカフェ店主から連絡が入る。
開店当時は載ってみていた情報誌関係にはやがて懲りて、今は基本的に書籍以外の取材は受けないのだけれど、その店の掲載記事を読み、他はどんな店が掲載されているのかを見ると、味のある店揃い。グルメ系ではない事もあり(なんと失恋話がテーマ)気まぐれで受けてみる事にした。
執筆者を調べてみる。どうやら紅白歌合戦にも出たような人らしい。解散コンサートは東京ドーム。常連さんに迷惑かかりそうな影響力なので、やめといた方がいいかとひとつ返事を撤回しようかと揺らぐ。
そこで頭に降ってきたのがクラシックで二度展示をしている画家が初回に言った言葉。
「どんな人に買われて、どんな場所に飾られて、どんな風に扱われても大丈夫。」(確固たるものがあれば擦り減ることはない。そのように仕上げている。そのような意。)
その頃カフェという場所はインスタグラマーによるコト消費の対象となり、辟易していた全盛の時。消費のされ方は違えど、例えば投機目的で買われるような、そういう愛のない購入のされ方は心がすり減らないのか?というような質問の答えだ。
今ならその言葉の意味が少しは分かる。
今のクラシックの積み重ねてきた確固たるものがあればきっと大丈夫。
試してみたくなった。
公開された日。正午に記事がアップされ、その日のうちに6人もファンの方々が来た。路面電車の終点。地方都市の町外れ喫茶店なのに。
普段クラシックには来ない雰囲気のお客さんたち。ドアを開けた瞬間にファンの方だと分かる。声をかけられる場合もあるが、そうでなくても注文は掲載されたものと同じものなのでまず間違いない。
その後もちらほらファンの方がいらっしゃるが、みなさん一様にマナーが良い事に驚く。
カフェ好きを自称するカフェ巡りインスタグラマーよりも、カフェらしい過ごし方をする人たちばかり。スタンプラリー的にふたりで来る人たちは大抵ふたりともそれぞれスマホを見て過ごしているのだけれど、ファンのふたり連れの場合は会話がある。ここで過ごすことを楽しみにして来て、実際に楽しんでいく。
その違いで気付いたのは、ファンの人はその人のファンという看板を背負っているからなのではないだろうか。
その芸能人に迷惑がかかるようなことがあってはいけない、という心がけを携えているように映る。
私たちは、いつでもなんらかの看板を背負っている。男だったり、女だったり、どちらでもなかったり。若者だったり、中年だったり、年寄りだったり。目の前の人にとっては自分がその職種の代表だし、そのジャンルの代表だし、その国の代表だ。
○○って素晴らしい。○○って最悪だな。
その人が背負っている○○は、出会った人に○○のイメージを植え付ける。
社会に出始めの頃、大人っていいな、早く大人になりたいなと思わせてくれた大人たちに出逢った。歳を重ねていく事、大人になる事は素敵な事なのだと植え付けられた。
実際にそうだったし、もっともっと大人になりたい。今も先を行く大人たちが楽しそうな大人の看板を背負った背中を見せてくれているから。
大人はつまらないぞと言う大人に出会う人生もあるらしい。出会う大人で、大人へ抱くイメージは正反対となる。
40年近く生きてきて、初めてアイドルとその界隈の人々と接した。
私の心にアイドルの印象、アイドルのファンの印象がとても良いものとして植え付けられた。
巡り合わせが悪ければ真逆の考えを持って、この先を生きる事になったのかもしれない。
私もいつも何かしら○○の看板を背負っている。
うっかり、他人の人生の価値観を左右する人物になるのかも、なってしまうのかもしれない。
留めておこう。心に。