誰かの中で生きている Ⅱ
飲み物を決め、食事のメニューを開こうとした時、ぼんやりと思い出した。
12年前のこと。「あの一品、パクらせてもらいました!」と、そういえば連絡があったなあと。
ページを捲ると懐かしい姿が目に飛び込んできた。なんと今でも提供され続けていたのだ。
10年前に店を閉め、私はそれ以来一度も作っていない。
開店以来ずっと人気らしく、遅い時間に行った為この日も完売で食べることは叶わず。
私が作らなくなった料理が、遠く離れた沖縄で輝きを放って生きていた。
野菜がおいしかったのが印象的だった。特にそれには触れなかったが、「伸ちゃんのとこで野菜を食べた時のおいしさから受けた影響はとても大きい」と語ってくれた。
「実はあの時…」再会の時に聞かせてもらうあの日々のこと。これが大人にならないと味わえない、時のご褒美というものなのだろう。
たとえば、一度も会っていない高校の同級生と会うことがあれば20年ぶりの再会となる。
ただただ生きてきただけなのに、再会は特別なものに育っている。受け取るのが楽しみなご褒美は、時計が進むごとにどんどん増えていく。
世間に流布されている"大人はつまらない"って言葉。本当に蔓延しているのだろうか。少なくとも私の周りでは聞いたことのない言葉だ。
やっぱり、大人っていい。
ただただ生きている、何気なくしている事で、何かを受け取ってくれている事がある。
一度でも誰かの中で生きていた事実があった事を知れば、その人生で完全な孤独を感じる事はもう二度と無い。
全てを失おうとするその間際も、きっと何も怖くない。
誰かの中で生きていて、それからも誰かの中で生きていくから。
最近豚飼いと親しくなって、その人の育てる豚のバラ肉で一度作りたいなと思った。もう東京では食べられないあのメニュー。食べられる(可能性がある)のは沖縄と北海道だけ。(正式名称は山芋の豚バラ巻き焼きだ。伝言ゲームのように形を変えながら、どこかに更なる血縁がいるのかもしれない。)