気功とヨーガ(yoga)
Ⅰ わたしのyoga認識
⒈総説
正直言って、yogaはやったことはありません。あくまでもごく一般的知識と、気功の実践者という視点から見た場合の認識があるだけです。その認識からの雑感を以下に書いてみようと思います。
⒉わたしのyogaの知識
わたしのyogaの認識といえば、古くはズームイン朝でyogaの講座をされていた藤本憲幸さんの番組内の発言や実技が接する端緒であったように思います(年齢がバレますね)。そこから佐保田鶴治さんや沖正弘さんの比較的読みやすい著作などを素読したりしたことはあります。
それから何と言っても衝撃的だたのは篠山紀信さんの撮影した成瀬雅春さんの写真でした。ものすごい写真で今でも印象深いです。そこから成瀬さんの著作を数冊拝読しました。おそらく最近の著作にはないと思うのですが、当時の著作には今思うと驚くような秘伝(現在の著作は精神的な境地が中心となっているように思います)が存分に公開されていたようにも記憶しています(円筒内を歩く方法とか)。その後、内藤景代さんの『冥想』や、『ヨガと瞑想』など(Amazonプライムでたくさん読めます)を読んだりしました。ヤントラについて実に深い著作が多いです。
あとは東洋哲学の概論書や仏典などが多いのですが、yogaの境地として山手國弘さんの『創業夢塾』には驚嘆しました。yogaの本というよりは世の中の仕組みやこれからの変化についての書き起こし本なのですが、autonomyから出立して人間がどうなっていくかという段階は今でも非常に興味深いものです。
あと、瞑想の方法としてダンテス・ダイジさんの著作、インド哲学的な世界の実相を描いた本として『聖なる科学』(スワミ・スリ・ユクテスワ著)は実に深いものがあります。
※ここまで敬称を全て「さん」に統一しました。先生とすべきか迷いましたが、直接師事したわけでもない一読者という立場から「さん」にしました。不愉快に思われる方がいたらすみません。
⒊わたしのyogaの認識
このような、経験やヤントラや神像などから、未経験者としては頭でっかちにまとめるしかないのですが、yogaはウパニシャッド哲学の実践的哲学であり、修行法であり、五感を制御して真理と合一する(「相合」の訳語がわかりやすい)もので、いわゆる梵我一如(「ブラフマン」と「アートマン」の合一)を目的とした実践法ということになろうかと思います。
玄奘三蔵(三蔵法師)の弟子の道昭が日本で開いた「法相宗」などの「瑜伽」の三性などもこれと関連があるように思います。
また、yogaでいうプラーナと気ですが、生命力としては大変似ているものだとは感じますが、「ああ(驚きの感動詞)」の「あ」と「Amazing」の「A」が異なるような違いはあります。
Ⅱ 気功家から見たyoga
⒈yogaを仏典から考える
「法華経方便品第二」に「十如是」という部分がありますが、これに出会った時には「ああ、これだ」の感がありました。
気功やyoga、瞑想などを単純に大別すると、「マインド・ワーク」と「パワー・ワーク」があるように思います。言い換えれば「精神をクリア(清澄)にすることから存在(という現象)を本来の清澄な状態にしようとするワーク」と、「私たちを成り立たせているエネルギー自体にコミットすることで本質と一体化しようとするワーク」となるでしょうか。
完全にどちらかに分類することは難しいですが、瞑想系は前者、気功などは後者なイメージです。yogaはプラーナやクンダリニーの概念や呼吸法などを伴うので中間的なイメージです。
さて、ではなぜこの「十如是」に驚いたのか。本文とわたしなりの訳文をつけてみましょう。
・本文
所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
・私訳
いわゆる諸々の存在とは次のようなものである。まずはそこに兆しがあり、性質が生じて、形が生じる。形が生じれば同時に力が生じ、力が生じればそこには作用が生まれる。それが動体であるならば物事の起こりとなり、起こりとなるならば働きかけとなり、働きかけならば結果を生じ、ある結果が生じれば反作用が生じ、その兆しと反作用の向こう側には究竟など(究極・真理・境地・空など)の、仏でなければ解し難い世界があるのだ。
わたしは瞑想は詳しくはありませんが、これら全体を見通していくものと、「体」を定点として、①「性」へ「相」へと帰り、②これを基軸にして「力」「作」をたどり、①②を踏まえて因縁と因果応報を読むものの大別すれば2種類があるように思います。
一方、パワー・ワークとすれば「体」と「力」を「性」が生み、「性」を「相」が生むとすれば、そこにはエネルギーの関係があり、そのエネルギーの作用自体にコミットしようとすることになります。
気功には性命双修という言葉があります。これはさまざまな解釈や意味づけがあるので一概にこうだとは言い切れないのですが、「性」を先天性の強い部分、「命」を後天性の強い部分とする解釈もあり、また、「性」は「生」(偏や冠などがつく以前の文字のほうが古形)であり、天賦の「生まれる」「生きる」「生える」「生じる」力であり、「神(シン)」に近いという解釈もあります。
いずれにしても「私」という現象に先立つものとする解釈が多いように思います。これらを牽強付会ぎみに「十如是」に当てはめると、現象を生じさせようという天の意思「相」の場所に、「性」というパワーが下されて現象が生じるような解釈が成り立つので、その「性」のパワーを研究し製錬して「形(命)」を強化し、「形」を強化することで「性」の力を余すことなく活用しようというのが気功的なパワー・ワークと言えるかもしれません。
⒉経験からyogaを考える
①yogaに似た体験
このエッセイを書こうと思った動機に、先だって2年ほど気功を学習している生徒さんとのレッスンがあります。上達の早い生徒さんなので、気脈の深さを層を調節することにしたのですが、督脈のやや深部に気を通していると、生徒さんが「おー、おー」と低い声を出し始めました。
気功などに興味をお持ちの方なので、一般の方よりも知識はあるのですが、その「おー」はアルファベットで表記をすれば「Om、Om」で、「O」の後に唇を合わせていたのです。
練習が一段落した後で感想を聞いたところ「なんだか熱いものが背骨を上って、背中じゅう汗が吹き出しました。思わず声が出ちゃう感じでした」とのことでした。
ここまで書くと、まるでyogaのクンダリニーみたいじゃないですか。
その方も、yogaの基礎知識はあるので意識的かどうか確認すると、そうではないとのこと。会陰から背骨に沿って百会に向かって上がってくる何ものかに気圧されての自然の発声のようでした。
②体験についての考察
確かに現象としてはよく似ているのですが、実際には方法が異なります。
例えば小周天の場合は督脈を上げて任脈を下げる循環型なのに対して、yogaで示される図は下部のチャクラから上部のチャクラへ解放される流れなので、これも大きく異なります。
気功でいうところの気の概念は、生命力としての「精・気・神」(※むしろ物質の状態の変化に近い変化)と森羅万象の根本としての気であり、陰陽説、五行説、八卦で展開されるのに対して、yogaの「プラーナ」はサーンキヤ学派のプルシャ(純粋精神)とプラクリティ(根本原質)の二元論の展開としてインド・ヨーロッパの哲学に共通する四大元素「風(ヴァーユ)・火(アグニ)・水(ジャラ)・地(プリティヴィ)」に「虚空(アーカーシャ)」を加えた五大元素の「風」と密接した「呼吸」や「生命力」という意味合いを持っています。
なので、簡単に「気=プラーナ」と訳出することは危険だとも思っています。
ただし、yogaの実践者が気功を見れば「yogaの特定のプロセスに似ている」と感じ、気功の実践者がyogaを見れば「気功のこの段階に似ている」ということはあり得ます。なにせ、身体を使ったパワーとマインドのコントロールには違いがないからです。
しかしながら、方法論の違うものをひとまとめにしてしまうのは乱暴だし、敬意がないとも思います。
自動車の駆動方式として「ガソリンエンジン」「電気モーター」「水素エンジン」があったとして、それらは街で行き交うことも、時に速度などを競うことも可能ですが、実際には別種の視点で同じ駆動力を得ているので、単純に同質と扱えない(修理の過程を想像するとわかります)のと似ています。
また、気功の内部だけで考えても、「道教的気功」「儒教的気功」「仏教的気功」の3系統(中国での根本的な思想の展開)があり、近年その根源的な部分が整理・統合(元来は極めて近似的な発想が展開されているので)されているので、確かに「インド的要素」はあって、仏教的な影響もみられますが、統一的な部分としてみると必ずしも主軸ではなく、それ以前の養生術・煉丹術や仙道のような実践に帰ると思います。
ただし、考察よりも現象が先行する部分はあるので、yogaの「Om」と言う聖句が覚者が体内エネルギーを高度にコントロール(梵我一如であれ、太極との合一であれ)するときに発する音として音写されたなら、こういう共通はあり得ると思います。
⒊まとめとしての雑感
気功とyogaどちらにしても、かなり直接的に人間の生命力にアプローチしていることは事実です。ですので、気功家がクンダリニー(症候群)様の酔いを再現することも、yogaの実践家が気功の偏差(間違った気の運用によっておかしな状態になること。ただし好転反応のプロセスとは異なる)を再現することも可能です。
しかし、それは全く主眼とは関係がありません。
気功家がクンダリニー様の酔いを再現しても「梵我一如」に至ることはありませんし、yogaの実践者の起こす偏差によって太極や無極に至ることはありません。
ネット情報の氾濫によって、結構危険な状態のものが人気だったりすると「危ないな」とも思います。
比喩的に言えば、「生命力のコントローラー」はバーテンダーに似ています。
お酒をあまりよく知らない人や経験の少ない人に、アルコール度数の異様に高いお酒を勧めれば、昏睡させることができます。下戸の人に50度や60度もあるジンやウォッカを勧めるのはかなり危険なことですし、これは素人の悪戯で、いやしくもプロであるならば絶対にやってはいけないことです。
人が酒場に来ることは、その人のその状況下における適量のお酒を最適な味や雰囲気で飲むことが目的です。たとえ「今日は酔い潰れたいの」と言われても、じゃあと急性アルコール中毒で昏睡させるのは異常なことです。
同じように「神秘体験がしてみたい」と言われて、たとえば気功家であるわたしが、「督脈(背骨ぞいの経脈)」にその人の許容できない量と質の気を送り込めば、前述の練習者の方の「背中が熱い」状態よりも危険な状態にすることは可能です。しかしそれは本質ではありません。むしろ異常な行為です。
深い思索のお供にお酒を含みたい人、憂さ晴らしに少しだけ余分に酔っ払いたい人、お酒の美味しさを追求したい人、健康のために血行をよくして緩みたい人に全部同じお酒を出したら、プロではありません。
どちらかと言えば、世の無謀な飲み方に警鐘を鳴らすべきだと思います。
気功家の立場で言えば、森羅万象は気によって成り立っていますし、気はこの世の中に遍満しています。しかし逆に個人として見れば(かつ、細部までを広義の意味で評価するならば)、その天分は決まっています。その決まった量の気の質をより良いものにし、天分よりも少し余分に気を受け取れるようにするのが気功です。そのことが潜在的な能力の開花や、身体や精神の状態維持や好転につながります。
壮大かつ極端にいうならば、雷一発分、もっと言えば台風一個分の気を個人に導いたら破綻します。ぶっ壊れます。そうではなくて、その人が健康を維持できる上限の食事(過食ならば内臓が破綻し、過剰に小食ならば活力を、通常は失います)を美味しく提供するのが、他人の生命力をコントロールするとのできる気功やyogaの指導者の絶対条件なのは言うまでもありません。
余談
まとめにバーテンダーの話を入れたのには訳があります。
明代の神医 李時珍(『本草綱目』の著者)の『奇経八脈考』の陰蹻脈の項目に、南宋の道家 張紫陽の『八脈経』の引用部分があり、その中に「倘能知此、使真気聚散、皆從此関竅、則天門常開、地戸永閉。尻脈周流於一身、貫通上下、和気自然上朝、陽長陰消、水中火発、雪裏花開、所謂、天根月窟閑来往、三十六宮都春。得之者、身体軽健、容衰返壮、昏昏黙黙、如酔如癡、此其験也。」の後段、「得之者、身体軽健、容衰返壮、昏昏黙黙、如酔如癡、此其験也。(これを得たものは、身体は軽く健康であり、加齢で容貌は衰えてもむしろかえって生命力は素晴らしく、しかも眠ったように静であり、酔っているようでもあり、バカのようでもある。これがその達成の目印である)」の比喩を踏んでいます。