気功と超能力
昨今練習していて、気功をやっていて身に付く超能力の極限は「自分から2m離れたところにあるものを、道具も使わず、踏み出しもせずに取ることはできない」と噛み締めてわかることではないかと思うようになった。
そんなことは言われなくてもわかると言われてしまいそうだが、ことは案外単純ではない。ちまたで言われる「超能力」はもっとド派手であるが、実際問題、スプーンが曲がっても、お札が浮いても、他人の過去を読み取ったり、未来を理解したとしても、前二つは手品で代替できるし、後の二つは心理学やら他の科学を用いても特定の分野ならできる話だ。
確かに、気功を練習していると不思議なことはよく起こる。
例えば、練習をしている時間に宅配も郵便屋も来ない(終わると来る・始める前に来る・気乗りがしないなと思って躊躇していると来る)とか、花瓶の生花に根が生え始めるとか、練習の最中ではないが、先だって美術館で熱心にものを見ていたら横の人が膝カックンになるとか、すごく混んでいる展示物の前に立ったらバーっと目の前の人がいなくなる(道ができる)とか、街でわけもなく睨んできた人がこけるとか、絶対に混みそうもないガソリンスタンドで給油してたら急に車が並び始めるとか、初対面の人と盛り上がっていてその人の過去の恋愛を語ってドン引きされるとか、ある人が忘れ物で困っていたときそれが部屋のどこにあるかを当てるとか、まあ気持ち悪いことがよく起こる。
つい先日も、病気の方に遠隔で気功指導していたのだが、そのかたの奥様に「旦那が光った」と言われたのだが、こういうことは往々にしてあることで、意図して起こるときもあるし、偶発的になっちゃうときもあったりする。
しかしながらこれらは別段不思議なことではない。
よく、スピリチュアルな方(神秘家の方)が「神社に参拝した時に風が吹いたり、垂(しで)が揺れたりしたら歓迎の合図です」というが、おそらくそれは常にそういう状態になる。
それは、気功自体がパワー・ワーク(気の流れやパワーの移動を追ったり、意識的に動かしたりする)であって、マインド・ワーク(自分の精神や感情・感覚の状態を主題として観察する)ではないからだと思う。
また、気功がまず対象とするのは人間のからだにある後天の気と先天の気であり、宗気であり、営気であり、衛気であり、元気であるわけで、それを経絡に従って動かしたり巡らせたり、整えたり実感してりすることから始まる。その中で陰陽を理解し、五行を実感し、八卦の理を悟るのであって、天地人の三才の気や太陽や月や星々の運行の気に至るのはもう少し後だし、広義での物質やエネルギーの本質としての気に至るのはかなり後の話なのかもしれない。
自分の実際に触れて感じられる気から動かしていって、だんだん精妙に、だんだん広大無辺になっていって、その段階に応じて根本的な本質に触れるとき、マインドも(エネルギーの現れとして)当然変化するという立場から行うのが気功なのだと思う。
今日はなんでこんなエッセイを書いているかといえば、年に一・二度確認するように読んでいた「体内旅行」というブログが消えているのに先日気がついたからだ。
それは、yogaをなさっている女性が練習の過程からクンダリーニ(尾骨に潜むという強烈なエネルギーらしい)が目覚め、それによって思ったこと、実際の経験、覚醒による変化、変化のプロセスなどを書き綴ったブログで、実に興味深く、世に溢れている怪しそうな「我は覚者なり」な商売っ気などは微塵もなく、実に率直な体験記であって、記事自体はもうだいぶ前に完結していて、数年に一度その女性が簡単な近況と生存証明を更新されるだけのものだったが、それがなくなっていた。
消されるには消されるなりの理由があったのだろうから、そこは推測もしないが、なんだか残念ではあったので、その残念さを晴らす意味で書いている部分が大きい。
気功にとっても性のエネルギー問題はとても大きいな問題だが、例えば、尾骨・仙骨にパワーを通す場合、それは必ずしも性エネルギーだけではない。ただ生き物の営みの中で、性ほど強烈にエネルギー放出することはない(その一回で絶命する生き物もいることを想像するとわかる)ので、放出する方向(反対は「蓄える方向」)にエネルギーを動かすと、性エネルギーの移動のような気がしてしまうだけで、先天の気の場合もあるし、天地の気の場合もある。
また、心と体のような二元論も取らない。陰陽説はどうすると言われそうだが、陰陽の考え方は交点を対照にするものではないし、陰陽の転換に中正を用いるので、実際に練っているのは中正の気であると言ってもいいかもしれない。
なので、身体が心のブレーキになって、心の自由度を奪うという考え方はしない。
ただ、巷間あるyogaの情報の中で、実に素晴らしい情報だったので、削除は悲しくはある。筆者の方は二次使用を厳禁としていたので、ここでは具体的な表現を引用もしない。
もし、運よく誰かのアーカイブなどでこっそり読めたら幸運な記事であることは確かで、それは文章自体のパワーからも伝わってくる。
さて、書き出しの種明かしを少ししておくと、人間には観念で出来上がった体と、実際の身体の二つのカラダがあって、観念の体は実際の身体を引き裂くということを自覚できることはあらゆる意味で重要だからだ。引き裂かれた状態にあると、不可能なことを可能と判断したり、逆に可能なことを不可能と判断することが起こる。これらは大きな妨げになる。
私たちは視野の外にある視線を感じるし、噂をすれば影ということもある。言葉を交わさなくても相手の様子や感情、体調などをある程度正しく把握できる。しかもそのときの「良い・悪い」は相対的な判断ではなく、かなり絶対的な判断になる。
他人の痛みを取ろうと手をあてると痛みや腫れが和らぐことがある。励ましの言葉で絶命せずに済むことがある。
こんなことはどこにでもある現実であり、「あ、あるよね」と気づくと現実で再現できる確率が上がるというだけだ。
私には到底できないが、中国の武術の達人「孫禄堂」の逸話を最後に挙げておく。
孫禄堂があるとき、その高い功夫を披露してほしいと言われて、体側をべったり壁につけて、足も壁につけて、つけたのと反対の足を上げて見せたというのがある。どこかでごまかす(肩をつけて押すとか、腰を微妙に離すとか)すればできるが、これは実際にはできない。
ただその宴席の人はがっかりしたらしい。壁を駆け上がったり、壊れないものを壊したりして見せてくれるのかと思ったからだろう。
多分そうなることを予見した名人は、同じことをやってみるように勧めるが、結局誰一人できなかったのである。
要は達人「孫禄堂」は2m離れたところのものを踏み出しもせず道具も使わず、ごく自然に取ってしまったのだ。これは「取れない」認識を得ないと絶対にできない。
補足
以前書いたアメブロに、微感覚を中心として論じたものがあるので、別解もお読みください。