自分の「常識」を疑ったことはありますか?
世代間ギャップの話題はむかしから至るところにあります。
先日、近所の銭湯に行ったら、脱衣所でスマホをいじっている女性がいました。たぶん20代かな。
すかさず、50代くらいの女性から指摘が入りました。そこから、口げんかとなり、フロントの方がやって来て……と、ちょっとした騒ぎになってしまったんです。
20代の女性にとって、お風呂に入っている間、見ていなかったスマホをチェックするのは「当たり前」の行動なのでしょう。
一方で、50代の女性にとっては、裸の人がいるところでカメラ機能のある機械を触るなんてとんでもない、ということだったのだと思います。彼女の「常識」からすると、写真を撮っているかどうか以前の問題。
どちらにとっても、自分の「当たり前」を通した結果、文化の衝突が起きた……。
ここで「お互いに想像力をもちましょうね」とか、「周囲の人への配慮を忘れずに」なんて言うのはカンタンです。
でも、そもそも自分の「常識」を疑ったことはありますか?
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」と、アインシュタインは語っています。自分がどんな偏見をもっているのか、それをどうやってコレクションしているのかなんて、考えたこともないよ……。
無自覚に蓄えた偏見という名の「常識」は、これまで生きてきた中で培った宝でもあります。人によっては誇らしい「実績」と昇華しているかもしれない。努力でつかみとった「成果」だって、お宝ですよね。
こうして過去や努力は正当化され、「常識」は堅固になっていく。
『7つの習慣』でいう「パラダイム」は、この「常識」と深く結びついています。
まず、自分の「常識」を自覚すること。
それが正義の御旗になっていないか、疑ってみること。
わたしが日々実践しているのは、これだけです。特に、自分が正義になっていないかは、強く意識しています。
会社という組織の中には、いろんな年齢の、いろんな考えの人がいます。「長」のつく、立場が違う人もいるし、まだ場に馴染んでいない新人もいる。疲れやすくなったミドル世代も、徹夜だってできちゃう若者世代もいる。
それぞれの役割で最善を尽くすことを最優先にできれば、目標への道のりを、もっとラクに、もっと楽しくできるんじゃないかしら……。
どっちみち「組織」なんて、永遠の未完成のようなもの。少しでもよくなることを目指して走って行くしかない。
今夜22時10分から配信する「モヤカラ♪」では、そのあたりについて考えてみたいと思います!