東京オリンピック-アスリートから学ぶべきことは何か
コロナ禍の中、メディアでの中止案や延期案などが報道される日々が続きながらも、1年遅れでオリンピックが東京で開催されました。前回の東京でオリンピックが開催されたのが1964年ということで57年の月日が流れています。7月23日の開催から約1週間が経過しましたが、日本選手の活躍は大会開催前の期待以上の感動を生んでいるのではないでしょうか?
教育、ビジネス、経済などの側面から日本は世界に遅れを取っていると言われ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い昔のようにも思える中、日本選手の活躍は憂いに近い感情をもたらすニュースが多かった昨今の日本国内に”希望”をもたらしていると個人的に感じています。金メダルの獲得数に関しても柔道を皮切りに中国、アメリカに続く3番目に位置しています。
では、なぜ日本選手はこれほどまでに世界の選手と渡り合えているのでしょうか?
そこには世界と比較した際に遅れていると言われる日本社会において忘れられている点、または見過ごされている点などがあるのではないでしょうか?今回は世界と戦う日本のアスリートから学べる点があるのではないかと思い、勝手ながらいくつかの仮説を立てつつ、今後の日本社会にて求められている要素をいくつか挙げて見たいと思います。
視座をどこに置くのか
オリンピック競技には当然、常に勝敗が付きまとうわけであり、各競技の選手たちはそれぞれ勝ち負けがかかる場面で試合に臨んでいます。各国から選抜された選手が戦うシーンはもちろん高いレベルの試合であり、難易度の高い技術の応酬や駆け引きが行われるわけですが、結果を残している選手を見ると自分の特性をどのように活かすべきなのか、とりわけその術を体得しているように見えます。
言い換えると、相手に勝る自分の長所や世界と戦うための武器に磨きをかけている選手でなければ、他国の選手と同等に渡り合うことが難しいことが容易に想像できます。
一方、日本国内の教育やビジネスシーンではどうでしょうか?
教育に関しては、最近はモンテソーリ教育やシュタイナー教育などを始め、幼少期からの自己肯定感を高めることや長所を伸ばすことに焦点を当てた教育が注目されているかと思います。しかし、過去に日本ではこれらに近いことを1980年代からゆとり教育として導入し「生きる力の育成」というアプローチを試みたのですが、結果的にはその後不本意ながらもゆとり世代と揶揄されてしまう世代が生まれたように生きる力は育成されなかったと言えるのかと思います。
また、ゆとり教育は本来であれば「国際化、情報化など変化への対応」を期待され導入されたはずでしたが、大学入学前にセンター試験(現 大学入学共通テスト)を受験する流れは変わらず、日本の学生が最終的には同じ目標を目指す社会の中では国際化に対応できるような個性を伸ばすことには繋がらなかったと思われます。
ビジネスに関して言えば、この数年で終身雇用の崩壊などがメディアでも取り上げられ、歴史の長い日本企業でも早期退職制度などが導入され始めましたが、まだ多くの企業では「メンバーシップ型」と言われるように1つの組織でのジェネラリストを育てる環境となっています。所属している組織の中では重宝される経験が積める可能性もありますが、いざ転職しようと思うと自分で思っているほど通用しないと感じる人も増え始めているのではないでしょうか?
スポーツ、教育、ビジネスと言った分野は違えど、各分野で注目すべき観点としては、どこを比較基準としているのか、視座をどこに置いているのか、ということでしょう。オリンピックのアスリートが比較されるのは世界各国のアスリートですが、日本国内の教育やビジネスに関してはほとんどの場合が国内での競争になっています。比較対象が国内で留まってしまうケースに関しては大半の場合が「日本人の中での優劣」で語られるため、海外との比較にはならないことがほとんどです。
文化背景や歴史が違うなかで全てを公平に国際比較することは難しいかもしれませんが、仮に国内での比較だった場合も目標や視線が高く設定される場合と、周りにいる距離の近い人だけでの比較では、理想とするイメージ像には圧倒的な違いが生まれるはずです。ロールモデルや自分のなりたい姿を体現している人物を目標にする程度のことでも良いので、自分の視座を少しだけ高く置くことでも日々の意識に変化をもたらすことに繋がると思います。
次世代の活躍の場
ソフトボールに関しては、これまで日本の大黒柱として活躍してきた39歳の上野由岐子投手はもちろんですが、今大会では20歳の後藤希友投手の活躍も目立ちました。一回り以上の年齢差がある2人の投手の活躍が日本の躍進を支えたのは間違いありません。また、卓球に関しては32歳の水谷隼選手と20歳の伊藤美誠選手が絶妙なコンビネーションで大会を湧かせました。特に年齢が下である伊藤選手が攻撃面で水谷選手を引っ張るというシーンも見られたと思います。
ビジネスシーンに置いて若手が活躍していないということではないのですが、今回の日本のように若手選手がチームを引っ張るような状況はいまの日本社会や会社組織では稀な状況かと思います。選手としての成長曲線がスポーツとビジネスでは異なる点もあるとは思いますが、そもそも若手が台頭できるような環境を公平につくれている組織がどれくらいあるのかという点に関しては疑問が残るのではないでしょうか?
中途採用の依頼を受ける場面でも「次の組織のリーダーになれる人材を探して欲しい」という声を良く聞きますが、それは「自社では次世代のリーダーを育成できていない」ということを言っているのと同じなのではないでしょうか?
未来のリーダーを育成する、またはポテンシャル人材を見つける段階において、企業ができることは、「若手に役割を与える」ことが上げられます。そして、これは1つの部門で行うよりも、全社展開されるようなプロジェクトであると組織全体としての取り組みの色合いが強くなるため、将来的には組織文化として定着できることが予想されます。
例えば、まだ管理職の役職に就いていないメンバーを複数の部門から選抜し、全社横断の企画を実施させてみると、該当メンバーは日々の業務とは異なる挑戦が必要になるため、新しいスキルや経験を得ることができると同時に、全社を通じて巻き込む人の数が多ければ多いほど、将来管理職に就いた際の自分のイメージが具体的に見えてくるはずです。
次世代のリーダーを育成することに課題を抱えている企業は「まずは役割を与えてみる」という取り組みをしていくことが将来の組織をつくる一歩目として考えられます。活躍する層が厚くなれば必然的に組織力向上にも繋がり、これまでとは違う多様な価値観も生まれるはずです。
“想い”を持つ大切さ
今回のオリンピックが東京で開催されていることが、日本選手の活躍にどれほどの影響を与えているかは数値で図ることは出来ないですが、自国開催だからこそ発揮できているパフォーマンスはあると思います。昨年、延期が決まった際の代表選手の落胆の心境は視聴者側の我々には計り知れないものがありますが、それを乗り越えるためには相当強い想いが必要だったはずです。ここでいう”想い”とは「目標にかける意志の強さ」です。どの選手にも当てはまると思いますが、オリンピックに出たからには金メダル獲得を自らのミッションに掲げていたはずです。
強い”想い”を持つ(ミッション、夢、大義を持っている)人ほど、自主性や能動性が高まり常に前を向いて努力するということが習慣化されるのではないでしょうか?一方、それらの想いが弱く、特に目標として目指すものがない場合、努力や自己研鑽にかける時間は自然と少なくなるはずです。
転職支援の仕事をしていると「何のために働いているのか」という事を自分の言葉で語れる方が少ないと感じることが意外にも多いです。年収、職場環境、福利厚生などの条件面の話はよく出てくるのですが、「働くことを通じてどんな事を表現したいですか?」「何をミッションにしてキャリアをつくっていきたいですか?」と聞いた場合、即答できる方は非常に少ない印象です。
日頃の職場では、業務に関係することは話すけれど、「どんな想いで働いているのか」ということを共有する機会はあまり多くないのではないでしょうか?現時点で想いを持っていない方が強い想いや熱い想いをいきなり持てるとは思いませんが、まずは想いを持っている人(または持っていそうな人)とコミュニケーションの機会をつくってみてはどうでしょうか?自分では考えたこともない話が聞けるチャンスかもしれませんし、そこから何かしらのインスピレーションを受けることにより、新しい気づきが得られるかもしれません。いきなりオリンピアンのようなストイックな想いは持てないにしても、何かのきっかけにはなるはずです。
管理職(マネージャー)やリーダー職に就いている方は部門のメンバーに対して定期的に「働く想い」に関して話す場を設けても良いかと思います。自分の部下や後輩が日頃どのような想いで仕事に向き合っているのかが分かるとその人自身の理解度が高まり、業務上でのコミュニケーションもよりスムーズになることで、いままで以上の成果を出せるような組織づくりにも繋がると思います。
当たり前のことかもしれませんが、今回のオリンピックを通じアスリートの方々からは改めて「視座」「役割」「想い」が持つ重要性を感じています。日本選手を応援すると同時に、自分の考えや行動を変化させる機会だと捉え、日本の教育やビジネスが発展することで、日本全体にも希望の総量が増えることが期待できるのではないでしょうか。
〆