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3、レジスタンスの必要性

※第一話に続く形で執筆した第二話です。レジスタンスの覚悟について述べています。2020年12月半ば頃の作品です。

前回書いたが、
私は「新型コロナウィルスは恐ろしくない」とする資料を作成し、
その資料を関係者に見てもらえるようにした。
しっかりとしたデータに基づいた、極めて冷静な資料だと自負している。

私の職場においてもその資料を、興味がある人は手に
取れるような形で勝手に置かせてもらった。
強制とは言われたくないので、あくまでも興味があるならという前置き付きでだ。
目を通してくれた方が何人かいたが、その人達には危険思想の持ち主だと勘違いされたらしく、以後私の前ではコロナ関連の話題に触れないようにしている様子がみられた。

結局その資料は、しばらくした後に上司に撤去された。
いずれ撤去されるだろうと想定はしていたし、却って上司には
面倒をかけている気持ちもあったので、特に異論はなかった。

結局撤去された理由のひとつは、私の部下にあたる人間から
「立場のある者のこのような行動は、暗に読めと強制しているのと同じだ」
「文章に乱雑な部分がある」
「まるでユーチューバーみたいだ」
との訴えがあった事らしい。

行動に対する反対も大いに結構なのだが、できれば内容についての反論が欲しかった。
それならば議論ができ生産性もあったのに。
そもそも私は職場内に蔓延するコロナ脳を解きたくて
このような行動を取ったのだが、結局は失敗に終わった形だ。

コロナウィルスの陽性者数が増え、Gotoトラベルやイートがいったん中止になるらしい。
またさらに倒産する店舗や企業、失業者や自殺者が増えてしまう。
マスコミも国民も政府も愚か者の集まりだ。
この全体主義を終わらせるには、草の根の抵抗運動、レジスタンスしかないのかもしれない。

真実を知ってしまったら、それに対して行動を起こせるかが大事になる。
全体主義に屈しないよう一人一人が覚悟を決め、抵抗運動に身を投じないとならない段階なのかもしれない。
何も考えずに「コロナ恐い恐い病」でいるほうが、ある意味では幸せだ。
戦わなくてもいいのだから。
抗わなくてもいいのだから。
まぁレジスタンスと言っても、第二次大戦時のドイツ占領下のフランスにおけるレジスタンスに比べれば、可愛いレジスタンスかもしれない。
彼らは命懸けで抵抗した。
本当に死ぬ可能性があった。
実際に多くの者が命を落とした。
日本におけるコロナレジスタンスは命までは取られないだろう。
しかし、このまま日本人の多くが畜群に堕していくのを眺めているのは悔しく情けない。
それに自殺者が増えていくのは絶対的に事実だ。

また、ここでレジスタンスとして戦っておかないと、必ず将来において若い世代から糾弾される。

「なぜあの時、大人達は間違った道に進んだのだ? 誰も間違いを指摘し行動しなかったのか?」

必ずそう言われるに決まっている。
この国は今を生きている人間のものだけではない。
未来に生きている人間のものでもあるのだ。
次の世代に糾弾された時、畜群共には一切言い訳はさせない。

「間違っていたかもしれないが、政府や専門家、テレビが言ってたから仕方ない」

そんな言い訳は絶対にしてくれるな。
人のせいにしてはならない。
このコロナにまみれた情けない国は、お前達一人一人が
選んだのだ。
例え負けても、世間から弾かれても、レジスタンスとして戦った者だけが、

「すまなかった。でもやれるだけの事はやったんだ」

そう言い訳をすることくらいは許されるのだ。

真実を知ったみんな、我々の手で何とかしてコロナ禍を終わらせようではないか。
己に与えられている環境で、無意味とも思える抵抗をするしか道は残されていないかもしれないのだ。
空気が読めない異端児扱いをされても、未来を見据えて耐えていこうではないか。
そして、負けた場合は、せめて若い世代に言い訳くらいはさせてもらおう。

「私達は戦ったのだ」と。

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