見出し画像

2、PCR検査の無意味さ及び日本人の問題点

※記念すべき第一話を再掲。このエッセイから全てが始まりました。2020年12月半ば頃の作品です。

東京都の「新型コロナウィルス感染症対策サイト」によると、
11月13日の東京都における新型コロナウィルスの新規「陽性者」は374人。
3日連続で1日の感染者が300人を超えているので、小池百合子東京都知事も警戒感を強めている。
また厚労省発表によると、全国における新型コロナウィルスの新規「陽性者」数は1623人だという。

さて、わざわざカッコつきで「陽性者」というワードを表示しているが、皆さんはこの「陽性者」が必ずしもイコール「感染者」ではない事をご存じだろうか? 
PCR検査にて陽性反応が出たからと言って、必ずしも新型コロナウィルスの「感染者」ではないのだ。

「え? でも言葉の使い方の違いだけで、『陽性』っていうのは、結局新型コロナウィルスに『感染』しているって事なんでしょ?」

……多くの方はこのように思っているかもしれないが、それは間違っている。繰り返し言うが、「陽性者」はあくまでもPCR検査にて「陽性」反応が出ただけで、必ずしも新型コロナウィルスに「感染」しているとは限らないのだ。

「本日の新型コロナウィルス新規感染者は〇〇人です!」

……などとテレビのニュース番組などは騒ぎ立てているが、これは言葉の定義もしっかりとできない頭の悪さをさらしているか、本当は「陽性者」=「感染者」ではない事を承知しているが、視聴率を上げる為に敢えて定義を混同させているかのどちらかなのだ。個人的には後者だと思っているが…。

以下、PCR検査における「陽性」と「感染」の違いついて、併せて「発症」という言葉の定義についても説明する。この概念整理はとても重要なのでよくご理解いただきたい。

さて、皆さんはインフルエンザの検査をした事があるだろうか? 長い綿棒みたいなヤツを鼻の奥まで突っ込まれるアレだ。PCR検査も基本的には同じ事で、長い綿棒みたいなヤツをグリグリ鼻の奥に突っ込まれる。

この綿棒グリグリによって新型コロナウィルスが検出されると、検査の結果としては「陽性」となる。

「いやいや、グリグリやって新型コロナウィルスが検出されたんでしょ? それって身体の中にウィルスが存在していたって事だから、やっぱり感染しているって事でしょ?」

こう多くの方が思うだろうがそれは違う。「感染」とは、「ウィルスが細胞に侵入した状態」の事を言うので、ただ鼻腔内や咽頭等に新型コロナウィルスが付着していただけでは、ウィルスに「感染」しているとは言えないのだ。綿棒グリグリによってウィルスが検出され「陽性」と判定されたとしても、細胞内にウィルスが侵入していなければ、それはただウィルスにさらされただけの状態なのだ(これを「曝露ばくろ」と言う)。

 また、PCR検査では検出されたウィルスが生きていようが死んでいようが関係なく「陽性」反応が出る。死んでいるウィルスやウィルスの残骸は全くもって感染の脅威はないが、どのような状態でも新型コロナウィルスが検出されたら全て「陽性」となるのだ。

 従って、「本日の新型コロナウィルスの新規感染者は〇〇人」などとマスコミは毎日飽きもせずに騒いでいるが、その「新規感染者」の中には、ただ新型コロナウィルスに「曝露」しただけの人も多く存在している事が考えられるのだ。

「なるほど、そうしたら新型コロナウィルスに感染して初めて、呼吸苦や頭痛といった症状が現れるんですね(キリッ)」

そう思われるかもしれない。しかしそれも間違っている。もう一度言うが、「感染」とは「ウィルスが細胞に侵入しただけの状態」で、細胞内の免疫機能によってウィルスが駆逐されてしまえば呼吸苦も頭痛も起きない。要するに「感染」と「発症」も、また別物なのだ。「感染」しても「発症」しなければ何も起きないのだ。いわゆる「無症状者」と言われているのがコレだ。

以上の事から考えると、現在、11月13日時点で新型コロナウィルス感染者数は11万4165人だというが、そのうちの多くの人が新型コロナウィルスに感染すらしていないと考えられるのだ。他国に比べて、ただでさえ日本の感染者数は少ないのだが、さらに感染者数が少ないと考えられる。これで本当に「第三波」が来ていると言えるのだろうか? いや、そもそも我が日本で新型コロナウィルスは流行していると言えるのだろうか? 

少し余談になるが、厚労省は6月16日、東京都、大阪府、宮城県の計7950人を対象に実施した新型コロナウィルス抗体検査の結果を公表したが、抗体陽性率は東京都0.1%、大阪府0.17%、宮城県0.03%だった。…これは衝撃の結果だ。

東京都の人口は約1400万人なので、0.1%というのは約1万4000人だ。あれだけ感染爆発だパンデミックだなどと大騒ぎしていながら、東京都では新型コロナウィルス感染者(抗体があったという事は、本当に「感染」している)は6月16日時点で1万4000人程度だと考えられるのだ。これはものすごく低い数字だ。プロ野球開催時の東京ドームの収容能力は約5万7000人だというので、東京ドームすら埋められない人数だけしか、この6月16日の時点で感染していなかったという事になる。そして抗体陽性率0.1%という事は、99.9%の都民は感染すらしていなかった、または感染してもすぐにウィルスを駆逐してしまったので、抗体を作る必要すらなかった事になるのだ。

この結果については、「ステイホーム」や高いマスク着用率の為に感染が抑えられたのだとする意見もあるが、現在の極めて少ない死者数から考え、日本人の新型コロナウィルスに対しての免疫力が異常に強かった為に感染すらしなかったのだと、個人的には考えている。

さて、少し話しが脱線したが、PCR検査についての話しはまだ終わらない。PCR検査についてはもう一つ大きな問題点がある。それは「サイクル数」の問題だ。ここからは若干難しい感じになってくるのだが、とても重要な内容になるので、もう少しだけお付き合い願いたい。トイレに行く方は、ここで行って来てもらいたい。タバコを吸われる方、「喫煙による死者数は毎年12~13万人」という事実を噛みしめ一服してきてほしい。

まずPCR検査の方法を詳しく説明する事から始めよう。PCR検査とは、検体に含まれている極めて微量なウィルスの遺伝子を2本から4本、4本から8本…と、どんどん複製させるサイクルを繰り返す事で、ウィルスを検出可能な数にまで増幅させて陽性判定を行っている。

PCR検査では、以上の説明のようにサイクルを繰り返すのだが、何回目のサイクルで「陽性」と「陰性」を判断するのかという基準値(Ct値)は、検査機器や国によって異なっている。

我が日本におけるサイクル数は、国立感染症研究所によると「40サイクル」となっているが、この40サイクルは良くないんじゃないの? と個人的には感じている。

ニューヨークタイムズ紙によれば、アメリカでは37~40サイクルに設定されているが、このサイクル数ではウィルスの残骸までも検出してしまうとの報告がある。

また、米国疾病予防管理センター(CDC)は、「33サイクルを超えた検体からは、生きたウィルスを検出する事はほぼ困難だ」と報告している。

カリフォルニア大学のウィルス学者ジュリエット・モリソン氏は「合理的な基準値は30~35サイクルだろう」と述べている(ちなみに台湾は35サイクル)。

さらにフランスのメディテラネ感染症大学研究所の研究論文によれば、「サイクル数が
34以上になると、その患者からは感染性のあるウィルスは検出されなくなる」と報告している。

……以上の報告から考えると、日本において40サイクルでPCR検査を行っている事は、いたずらに陽性者数を増やしていくだけではないかと考えられる。現在日本では、毎日2万件から3万件もの膨大な数のPCR検査を行っているが、やればやるほど陰性の者も陽性としてカウントしてしまう確率も高まり、いたずらに医療現場を圧迫してしまうだけではないだろうか? 

また余談となるが、日本における新型コロナウィルスによる死者数についても、実際はもっと少ないのではないかと考えられる。

6月18日付の「厚生労働省新型コロナウィルス感染症対策本部」からの事務連絡によると、「厚労省では新型コロナウィルスの死亡者数を速やかに判断するため、『新型コロナウィルス感染症患者が死亡したとき』については、厳密な死因は問わず報告をするよう願います」というような内容の通達をしている。

厳密な死因は問わない?? これはどういう事かと言うと、どう考えても主要な死因がガンであっても脳梗塞であっても心疾患であっても、PCR検査にて陽性反応が出ていたならば、それは「コロナ死」としてカウントされるという事だ。そんなバカげた話しがあるだろうか? もしかしたら、交通事故や水難事故、殴り合いのケンカやモチを詰まらせて死んだのだとしても、PCR検査にて陽性だったら「コロナ死」としてカウントしているかもしれないのだ。…んなアホな! もし、自分が人類を守る為に地球征服を企む宇宙人と戦って死んだとして、PCR検査が陽性だったから「この人は『コロナ死』でした」なんて言われたら死んでも死にきれない。

また話しが横道に逸れたが、最後に今までの内容をまとめると以下になる。

① PCR検査の陽性者というのは、感染者でもなければ発症者でもない可能性がある。
② 日本のPCR検査のサイクル数は「40サイクル」だが、このサイクル数では正しく陽性判定がされない可能性がある。

一体、PCR検査とは何なのだろうか? PCR検査さえすれば感染が抑えられると考え

ている方も多いが(PCR検査を増やす=感染者が減るというロジックが、自分には全く分からないのだが)、そもそもPCR検査自体が信用性のないものだと考えられるので、こんなものを増やしていく必要性など全くないと結論せざるを得ない。

日本での感染者数、死者数は他国に比べて極めて少ないのだが、感染者数も死者数もさらに少ない可能性もあるのだ。「第三波」も何も、日本では新型コロナウィルスが流行しているとすら言えないのではないかと、やはり感じてしまうのだ。

さてここまでPCR検査に関してまとめてきた。皆さんの貴重なお時間をいただいてしまい大変申し訳なく思っている。

結局言いたかった事は、「みんなが正しいと言っている事が正しいんだ」という村の掟的な考え方はやめ、「みんな自分の頭で考えてほしい」という事だ。マスコミやマスコミに頻繁に登場する多くの専門家の意見は本当に正しいのか? 若者のほとんどは感染しなくても、高齢者にうつす可能性があるから自粛しろという意見は正しいのか? マスクは本当に予防効果があるのか? そもそも新型コロナウィルスは本当におそれるべきウィルスなのか? そういった事を自分の頭でも考えてほしいという事を言いたかったのだ。

「みんな」が――国民の多くが正しければ構わないのだが、国民の多くが判断を誤る場合もあるのだ。そんな時、自分の頭でしっかり物事を考えていれば、国民の多くが判断を誤ってしまっても、自分は正しく物事を判断する事ができるかもしれないのだ。

第二次大戦中、ドイツでは多くの罪のないユダヤ人が殺害された。「ユダヤ人はゲルマン民族にとって有害だ」と考えたからなのだが、ユダヤ人が劣っているという理由はとどのつまり「ユダヤ人だから」という全く科学的根拠を欠いたものでしかなかった。しかし多くの国民がその根拠なき根拠を信じ、ユダヤ人を迫害したからこそ、あの強制収容所やガス室が生まれたのだ。

日本においても、かつてハンセン病の人達に対して熾烈な迫害を加えた歴史がある。ハンセン病はかつて、「癩病(らいびょう)」と言われ、本人はもとよりその家族も差別されていたが、1930年代になると、すべてのハンセン病の人を強制収容して県内から一掃しようという「無癩県運動(むらいけんうんどう)」が巻き起こるに至った。

現在ハンセン病は「世界一感染力が弱い」感染症とされ、感染力も発症頻度も極めて低く治療法も確立しているのだが、当時の日本人の多くは、「癩病はおそろしい不治の病」という間違った理解をしていた為、皆競うようにハンセン病の人を摘発したのだった。

ドイツでも日本でも、ユダヤ人やハンセン病の人達を差別・迫害したのは多くの普通の人たちだった。多くの普通の人たちが、あのような恐ろしい行為を正しいと信じて行ったのだ 。

自分の頭で考えず、みんなが言っていることが正しいのだと無批判に信じていると、かつてのドイツ人や日本人のように、とんでもない犯罪的な行為をしでかしてしまうおそれがあるのだ。これは物凄く恐ろしい事だと思わないか? 

「コロナは恐ろしいウィルスなんだ!」「PCR検査を増やさないとダメなんだ!」「マスクをしていないヤツは外に出るな!」それらがどのような根拠に基づいているかを吟味もせずに叫ぶ者は、かつてのドイツや日本に生まれていたら、間違いなくユダヤ人やハンセン病の人たちへの差別・迫害に加担しただろう。精神構造が全く一緒だからだ。

またもう一つ、これで最後になるが、新型コロナウィルスを過剰におそれて様々な行為を制限することは、「子供たちの未来」を踏みにじる行為にもなりかねないのだ。

当時の安倍晋三首相は新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐ事を目的に、小中高と特別支援学校について、3月2日から臨時休校するよう要請した。この臨時休校は6月まで続き、その後も分散登校等でロクに授業も行われずに夏休みに突入した学校も多い為、実質9月までの約半年間、子供たちは学校に通えない状態が続いたのだ。

子供の頃の半年という時間は、我々大人の数年分にも匹敵するくらいの長い時間だ。自分の子供の頃を振り返ってみて、そう思わないだろうか? 友達と遊んだり勉強をしたり、異性を意識したり悪さをして先生に怒られたりという貴重な半年という時間を、新型コロナウィルスを過剰におそれた大人たちの都合で、子供たちは自宅に押し込められたのだ。早くから子供たちはウィルスに感染する確率は低く、感染してもほとんどは無症状だと言われていたにも関わらず、小池百合子に何かしらの対応を迫られていた安倍晋三は、感染予防の効果が極めて低いにもかかわらず、経済的にダメージが少ない事から、まずは子供たちの行動制限に踏み切ったのだ。そう、この国はまず子供たちを生贄(いけにえ)にしたのだ。

よく「子供や若者たちの行動を制限する事が、高齢者の命を救う事になるのだ」などという意見を耳にするが、それは間違っている。多くの子供や若者に新型コロナウィルスの抗体ができると、それがバリアとなって結局は高齢者の命も守られるのだ。子供や若者は免疫力が強いので、ウィルスに感染した事にも気づかずに勝手に抗体を作ってしまう可能性が高い。その子供や若者の抗体によって高齢者も命の危険性が低減するのだから、却って子供や若者は人との接触を減らさないほうが良いとすら言えるのだ。

子供たちは元気いっぱい友達と遊べば良いのだ。若者たちは大勢で居酒屋で騒げば良いのだ。何がクラスターだ笑わせるな。

それとだ、一万歩ゆずって子供がウィルスを振りまいたとしても、子供を家に押し込めて、その貴重な時間を奪った事に、何の心の痛みも疚しさも感じない大人の態度は、傲慢で自己中心的で情けなく醜いとまで思うのだが、皆さんはどうだろうか? 

良い大人が己の命惜しさに子供を犠牲にしているのだ。今の日本で一番犠牲を強いられているのは子供たちだ。今も子供たちは学校で、無駄な感染対策に振り回されている。子供を犠牲にしてまで生き永らえなければいけない命とは、一体どんな命なのか? もし自分だったら、子供から新型コロナウィルスが感染し死んだとしても、子供にうつされて死ぬのだったら本望だ。子供は未来そのものだ。希望そのものだ。そんな子供の未来に向けた時間を奪ってまで生き永らえたいとは全く思わない。喜んで死んでみせる(本当はちょっとだけ怖いけどね)。それでも生き永らえたいという者は鬼畜生だと見下してしまう。新型コロナウィルスごときでオタオタとするな情けない。恥を知っていただきたい。大人は子供を守らなければならないのだ。こんな事は動物でもわかっている自然の摂理だ。

学校の給食で命をつないでいる、貧しい家庭の子供がいるかもしれない。自宅にいる事で、親から更なる虐待を受けている子供がいるかもしれない。失業し絶望的になり、自ら命を絶ってしまった親を持つ子供がいるかもしれない。人との接触が減り、精神を病んでしまった子供がいるかもしれない。SNSで誤ったつながりを求め、大人から性的な被害を受けた子供がいるかもしれない。時間が余った事でセックスに興じてばかりいて、望まない妊娠をしてしまった子供がいるかもしれない。……子供たちを犠牲にするという事は、こういった事例が起きても仕方ないと大人たちが考えているという事なのだ。

大人たちはどのように生き、どのように死ぬかを考えておかないといけない。命そのものにしか興味がない「生命至上主義」が、哲学なき打算的な生につながっているのではないだろうか? 人間には命より大切なものがある筈なのだ。

かつてドイツの哲学者ニーチェは、「大衆」を「群れが、ある方向に向かえば、全員が疑問も持たずに同じ方向に向かう。個のない群れだ」というように揶揄し、そういった群れをなす人々を「畜群(ちくぐん)」と名付け批判した。

このコロナ禍と言われる現在は、「人間」に残るか「畜群」に堕してしまうかの「分水嶺(ぶんすいれい)」ではないだろうか? ユダヤ人やハンセン病の人達を守れる人間であろうとするのか、反対に差別し殺してしまうかもしれない畜群に堕してしまうのか? まさに瀬戸際だ。人間でいたいと願うのならば、「みんな=畜群」という不特定多数の意見に惑わされず、自分の頭で物を考える事を切に願う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?