38、路肩に立つ男⑫ 現れた女の霊
15分ほど自転車で走ると、やっと○○町の病院が見えてきた。それはかつて僕とSくんが通っていた病院だ。あの病院から出てすぐのところで、僕とSくんは女の霊に襲われたのだ。その女の霊は、きっとSくんの弟を呼び寄せ、何か良からぬ事を企んでいるのだ。なぜそんな事をしようとしているか分からないが、それが却って僕の不安な気持ちを助長させていた。
「亘(わたり)くん、病院ってあの病院の事よね!」
「はい、あれです!」
Yさんは病院の前で自転車を停めた。僕は荷台から降りたが、右足を着くと鋭い痛みが走った。これから女の霊やSくんの霊と渡り合わなくてはいけない時に、この負傷は相当不利に働くだろうと僕は思った。しかし、僕は一人ではない。Yさんも一緒に居てくれている。Sくんが死んでしまっても決して乱れずに凛としている、この「鉄の女」が僕の傍にいる……。そう思うと、僕は少しだけ希望を持つことができた。
「亘(わたり)くん!」
突然、Yさんが悲鳴のような声を上げた。
「あそこ――イヤだ!!」
Yさんが何やら上の方を指差し、恐怖で引きつったような表情を浮かべて僕の腕を掴んだ。僕はYさんが指差しているところ、すぐ近くの雑居ビルの屋上に眼を遣った。――瞬間、僕の全身に鳥肌が立った。同時に、周囲が鋭く緊張した空気に覆われた。雑居ビルの屋上にSくんの弟らしき姿が見えたからだ。Sくんの弟は安全の為に設けられた金網の「こちら側」……要するにSくんは遮るものが何もない屋上の縁(へり)の部分に、こちらに背を向けるようにして立っていたのだ。
「亘(わたり)くん、どうしよう! Kちゃんが――」
Yさんは取り乱した様子で僕の腕にしがみつく。さっきまで冷静だったYさんは明らかに動揺しているようだった。無理もない、もしSくんの弟があの6階建てのビルの屋上から落ちてしまったら、確実に命を落としてしまうだろう。きっと、あの女の霊がSくんの弟に何かを強要しているのだと僕は思った。あんな幼い子に一体何をしようとしているんだ! 僕のなかに強い怒りが湧き上がってきた。
「行きましょう、彼を助けないと!」
僕はYさんの手を引いて、Sくんの弟の居る雑居ビルに向かって走り始めた。右膝が強く痛んだが、僕は歯を食いしばって堪えた。
「こっちから行きましょう!」
雑居ビルにはエレベーターが設置されていたが、僕はそれを使用せず、Yさんの手を引いてすぐ脇にあるビル内の階段を上った。もしエレベーターを使用している際に誤作動が起こり、途中で閉じ込められてしまってはかなわないと思ったからだ。周囲の空気は鋭く緊張している。あの女の霊がエレベーターを強制的に停めてしまう可能性もあったのだ。
3階辺りまで駆け上がった時、僕の右膝が言う事を聞かなくなってしまった。
「亘(わたり)くん、どうしたの?」
「いや、僕の足が――動け、動いてくれ!」
僕は何度も右膝を拳で叩いたが、僕の右足は十分に動いてくれなかった。――その時、すぐ前方に嫌な気配を感じた。顔を上げた僕は思わず息を飲んだ。……そこには、あの女の霊が立っていたのだ。この冬の寒い時期に、部屋着のような半袖と短パンを履いた、裸足の若い女の霊が……。女の霊は無機質な表情で僕の事を見下ろしていた。
「亘(わたり)くん……何か見えるの?」
僕の背後で、Yさんが怯えたような口調で僕に尋ねた。
「眼の前に、あの女の霊が立っています」
僕は女の霊から眼を離さずに呟くようにしてYさんに伝えた。Yさんは返事をせず、僕の腕を強く握った。この今居る階段は人がやっと擦れ違える程度の狭い階段だ。このまま女の霊の脇を通り過ぎる事はできないだろう。だからと言って、僕の右膝の状態を考えると背を向けて逃げる事すら叶わないだろう。まして僕は女の霊を見る事すらできないYさんを連れているのだ。……僕はまさに、絶体絶命な状況に陥ってしまった。
「……Sくんの弟を、どうするつもりなんだ?」
僕は女の霊からの攻撃に備え、身を低くして尋ねた。
「……一緒に連れていくの」
女の霊は呟くようにそう言うと、ニヤリと気味悪く笑った。
「どうして?」
「あの子のお兄さんが待っているからよ。アタシが殺したあの耳の聞こえない子がね」
「Sくんがそんな事を望む筈がない!」
僕は強い怒りを感じ、女の霊を睨みつけた。
「Sくんは誰かを道連れにするような人間じゃないんだ!」
背後に隠れるYさんが、僕の腕をさらに強く握った。
「望んでいるよ、アタシはそう感じるんだもの!」
「お前がどう感じるのかは知らない! Sくんはそうは思っていない!」
女の霊は忌々しそうな表情を浮かべた。
「それでも、あの子の弟はノコノコとやって来た。弟は死んでも良いみたいよ?」
「どういう事だ?」
「どうも何も、『君がこの屋上から飛び降りて死んだら、お兄さんが助かるわよ』って教えてあげただけ」
「なんて卑劣な……卑怯だ、卑怯だぞ!!」
僕は怒りが頂点に達し、女の霊に飛び掛かろうとした。しかし、右足が動かず前に進めなかった。女の霊はそんな僕の様子を見てゲラゲラと下品に笑った。
「君の方こそ、よっぽど卑怯じゃない? あの子を転ばせて自分だけまんまと逃げちゃったもんね」
僕は返す言葉がなかった。――そうだ、僕はSくんを犠牲にして一人だけ逃げたのだ。
「どう、何も反論できないでしょ?」
女の霊は勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「僕とここで一騎打ちだ……」
「……は?」
「僕とここでやりあおうって言っているんだよ……」
僕は女の霊を睨みつけたままそう告げると、大きく深呼吸をした。僕はこの女の霊と戦う事を決意したのだ。僕はそうするしかないと思ったのだ。卑怯な行為でSくんを殺してしまった僕は、まずここで命を懸けて闘うしかない。「禊(みそぎ)」ではないが、そうしないとSくんは僕の話しも聞いてくれない。……僕はそう思ったのだ。
「亘(わたり)くん、ダメ! 死んじゃうよ!」
Yさんが必死な様子で僕の腕を揺さぶった。
「大丈夫です、こんな腐ったヤツなんて余裕です。雑魚ですから」
僕はそう言うと、女の眼を見たまま「フッ」と笑った。鳥山だったら、きっとこんなような不遜な態度を取るだろうなと考えながら。
「このガキ……」
女の霊の表情が一変した。女の霊は、強い怒りを感じたようだ。
「……僕の名前は亘(わたり)礼一だ」
「それがどうかしたの?」
「僕は幼い頃から、何度も何度もお前のような霊に襲われてきた。でも、僕は死なずにこうして生きている。全て逃げおおせたからだ。でもな――」
僕は強く湧き上がる殺意を全身に感じた。こんな荒々しい気持ちを感じたのは生まれて初めてだった。
「でもな、そんなふうに全ての霊から逃げおおせた僕が、もし全力でお前に立ち向かったとしたらどうなると思う?」
「な、何よ?」
女の霊の表情に、怯えたような感情が浮かぶのが見えた。
「お前はこの世から完全に消えてなくなるという事だよ」
そう言うと僕は階段を一段のぼった。……女の霊は、明らかに恐怖を感じているようだった。
「亘(わたり)くん、やめて!」
「大丈夫。きっと勝ちますから」
僕はYさんの手を握ると、その手を自分の腕から離した。
「それじゃあいくぞ! うおおおおおお!!!!」
僕はその場に立ったまま、尋常ではない程に声を荒げた。すると、女の霊の姿がパッと消えてしまった。……ん、逃げたか? そう思った瞬間、Yさんが叫び声を上げた。後ろを振り返ると、女の霊がYさんの頭を両手で掴み、乱暴に左右に振っていた。
「Yさん!」
僕は女の霊の腕を強く掴み、Yさんの頭から引きはがした。僕は女の霊と揉み合いながら階段の踊り場までゴロゴロと転げ落ちた。僕は女の霊の上に跨り、上から身体を抑えつけた。
「Yさん、僕がこうやっている間に弟を助けるんだ!」
僕は必死で抵抗する女の霊を抑えつけながら、Yさんに向かって叫んだ。Yさんは女の霊が見えないので、今自分に何があったか分からず、そして今、僕が何をしているかも分からない為、どうしたら良いのか分からないような様子だった。
「さぁ、早く!」
僕はもう一度Yさんに訴えた。Yさんは状況を理解したのか、何度か頷くと階段を駆け上がっていった。
「離せ、離せぇええええ!」
「離すもんか、Yさんにまで手を出しやがって! お前なんて僕が地獄に送ってやる!」
僕は激しい怒りと共に女の霊の首を両手で掴むと、全身の力を込めて締め上げた。既に死んでいる霊に対しておかしな感情だが、その時僕は「このまま息の根を止めてやる」と本気で思った。しかし、首を絞め始めた途端、女の霊はまたもスッと消えてしまった。
「どこだ、どこへ行った!」
僕は周囲を見回したが、女の霊はどこにも見当たらなかった。僕はYさんの後を追って、ヨロヨロと階段を上り始めた。すると、どこからか女の人と思われる悲鳴が聞こえてきた。その声はきっとYさんの声だと直感した。おそらく屋上に辿り着いたと思われるYさんのところへと移動した女の霊が、きっとYさんを襲っているのだ。それかもしかすると、Sくんの弟の身に何かあったのだ。……まさか、Sくんの弟は屋上から落ちてしまったのではないだろうか? ……僕の全身に震えが走った。
僕はさらに急いで階段を上り始めた。右膝以外も、今階段から転げ落ちたせいで身体のあちこちが痛む。僕は必死に身体を動かし、半ば這うようにして屋上を目指した。速く屋上へ行かないと、あの二人が危険だ!
僕は相変わらず、絶体絶命のピンチを迎えていた。