100号越え詩誌の重み
白島 真
今回は詩誌の号数に留意してみた。100号を越えている詩誌に絞って書いてみようと考えたが、何と6月から9月中旬に発行され、たまたま今、手元にあるだけでも30誌もある。当然、全部は掲載し切れないので、詩誌名と号数だけを列挙すると以下のごときである。その中からいくつか取り上げてみたい。(地域や発行者、編集者のお名前は文字数制限があり割愛させてもらった。順は不同です)
『駅』123、『逆光』106、『橋』160、『独合点』140、『環』168、『銀河詩手帖』300、『地下水』236、『形』101、『三重詩人』250、『裳』141、『舟』180、『想像』169、『リヴィエール』171、『かおす』153、『木偶』115、『飾画』124、『潮流詩派』262、『詩脈』389、『兆』187、『鹿』155、『くれっしぇんど』110、『山陰詩人』217、『操車場』152、『枠青』102、『青い階段』117、『竜骨』113、『ぱぴるす』132、『KAIGA』114、『解纜』170、『かばりあーそして』199。
この稿を書いている途中でさらに詩誌が大量に届き、その中から100号を越えているものは12冊。『アリゼ』198、『密造者』108、『焔』119、『樹林』665、『火片』205、『サロン・デ・ポエート』341、『銀河詩手帖』301、『京浜詩派』231、『みえ現代詩』112、『詩と眞實』855、『国鉄詩人』282、『虹野』104。
100号越えといっても、発行期間・回数はそれぞれなので、一概に数字の大きい詩誌が歴史が長いとはいえないが、仮に季刊なら100号まで25年、月刊でも8年以上かかるわけで、そのご努力には頭が下がる。同人誌であればそれだけ長期にわたって地域の詩人たちの精神生活を支え、会合や合評会等、その詩誌が中心となって交流・研鑽の場となってきたことを考えると、その社会的意義は計り知れないほど大きい。では順不同でみていこう。
☆『火片』205(倉敷市・編集人・柏原康弘、神崎良造、重光はるみ、則武一女)
妹尾礼子の巻頭詩「風のエール」では偶然目にした新聞記事で重光はるみの書いた「井岡行彦先生を悼む」が詩と写真で紹介されている。井岡は『火片』の元主宰者である。その重光は詩篇「スイッチ」で宮沢賢治の「本当の幸いってなんだろう」を自身に重ねる。斎藤恵子「しらないひとたちと」の「です・ます調」の詩が印象に残った。
しらないひとばかりのバスで
観光旅行にいきました
(中略)
水やりのとき道ばたの花が
かくれんぼしたみたいだったけど
夕方つぼみが赤らむことがあってね
バスはむかし栄えた都に行きます
しらないひとたちは
ふるい都と知ると
ほほを赤くして
つばさをひろげるように身をのりだし
まぶしい車窓をみあげました
飛ぶものが魂のように白くありました
わたしはきのう
疲れを知るまで歩きつづけました
ひたすら街角をめぐり
急な雨に濡れることを
からだを蝕まれるように喜びました
(中略)
深緑をくわしくいわなくとも
まえにひろがっているのね
うなずくのです(中略)光る月が疾走し
暗みに墜ちていくのを感じました
しらないひとたちは彫像のようになっています (抜粋)
「水やりのとき~」からの3行、「深緑を」「まえにひろがって~」の2行は一字下げで、しらないひととの不思議な会話を醸し出していて、異世界が広がる。
☆『潮流詩派』262(東京・麻生直子)
1955年7月創刊の詩誌であり、村田正夫亡きあと、夫人の麻生が発行人。麻生ほか編集人として清水博司、鈴木茂夫、戸台耕二、山本聖子などが中心メンバー。山下佳恵、平井達也、勝嶋啓太、石毛拓郎の名もみえる。故村田正夫詩篇「夜」の終連9行を引く。
高田新木原孝一関根弘寺山修司草鹿外吉諏訪優武田文章長谷川龍生風山瑕生城侑・・・
死んでしまった詩人まだ生きている詩人
みな酔っ払いの夜の詩人
花嵐 五十鈴 ナルシス 古茶 まえだ
終電を待つ詩人始発を待つ詩人
みな不眠症の詩人
いまは夜も電気をつけずにすぐ眠くなり
眠るのか死ぬのかよく判らないんだよ
お立合い
(『出陣する唄』より「夜」抜粋)
☆『樹林』665(大阪・校長・細見和之)
大阪文学学校通信教育部の作品集である。小説は残念ながら時間がなく読めないが、詩・エッセイ部門の川上明日夫、冨上芳秀の生徒に対する詩評が実に辛辣かつ正鵠を射ていて勉強になる。冨上の評の一部を引用する。(対象は詩)
非常に才能があるのだが、もっと文章(筆者註・詩行のことと思われる)の修行をする必要がある。文章に向かい推敲をしなければならない。原稿を見るとその努力が足りないことがよくわかる。清書しなさい。また一週間後に赤ペンを持ってその原稿に向かいなさい。それから一か月後に朱を入れなさい。私もまた、何度も書き直すと、もうエネルギーを使い果たし、完成したと思った後は、その作品を見るのも嫌になることがあった。しかし、それではだめなのである。そこからが勝負なのだ。辛いけれど、また作品と向き合わねば、本当の力はつかないのである。
☆『国鉄詩人』282(厚木市・矢野俊彦)
近藤東、岡亮太郎らが中心となり、まず東鉄詩話会を結成し、1946年2月に雑誌「国鉄詩人」が創刊された。そして国鉄(日本国有鉄道)が分割民営化され、JRが発足したのが1987年。余談だが旧国鉄が赤字に苦しんだことから、新会社では、「鉄」の字を「鉃」で表すところが多い。74年間も「国鉄」で通してきたことには、表紙にもあるような重機関車の響きを感じる。「便所掃除」の詩で有名な濱口國雄に触れた井崎外枝子(寄稿)、ゆき・ゆきえの詳細な論考に注目した。
☆『形』101(尾張旭市・岡田尚子)
女性5名の同人誌。今回は渡邊二味子が欠稿だが、力作が目立つ。書き出し3行は詩では特に重要だが、それぞれがよく工夫をして個性的な作品となっている。各自の書き出し方を引用してみる。
そこが ひもろぎとはしらず
千年の梛の木にもたれて 眠った
たしか 少女だったはず
二万ばかりの ゆめをみた
(三浦良子 「ただ それだけ」冒頭)
ところが 滅びた国は
一つではありませんでした (蔵島久美子「花の名前」 冒頭)
ワタシヲオサカナニスルナ
と青年は書いている (中山郁子「ノート」冒頭)
私のソウルフードである
父の明治を食べるのである (同「卵かけごはん」冒頭)
ここにいた人は
どこに行ったの
ここだというわたしを通り過ぎ
母は階段を昇る
(岡田尚子「ここにいたひと」 冒頭)
☆『京浜詩派』231(横浜詩人会議・洲史)
府川きよしの「日本の七十年戦争」の連載が始まった。丸山静雄著「日本の七十年戦争」をベースに1874年の台湾出兵から1945年の敗北までの71年間を一貫した侵略戦争と位置づけ、府川自身の体験や学んできた思いを込め描きたいと述べている。⑴と⑵が掲載されている。
☆『みえ現代詩』112(いなべ市・梅山憲三)
事務局は鈴鹿市の佐藤貴宜。村山砂由美も上記2名とともにあとがきを書いているので編集委員だろうか。今号では秦ひろこの詩篇「ゆらーり シロナガスクジラが・・・」が昔のボンネットバスの巨体をよく表していて楽しめた。
☆『鹿』155(浜松市・埋田昇二)
発行人の埋田が「『鹿』の群像」というエッセイを書いていて、この詩誌の歴史がよく分かる。1978年創刊で当初の誌名は『馬』だったそうだが、後に木原孝一から西宮で同名の詩誌があるとの指摘を受け、8号から『鹿』と改題したとある。さすがに155号ともなれば多くの同人の出入会を経ているが、創刊時のメンバーは埋田と安井義典だけ。前回の当詩誌評で名前を上げた橋本由紀子は24号から、現編集人の中久喜輝夫は90号からで頑張っている。メンバーも一新され新しい飛躍を目指すとある。安井義典の「誰もいない風景」は挽歌であろう。
夜明けの光のなかで
あぶない傾斜が延びていた
そこだけが闇から消えていく青さの
髪をなびかせながら一人でかけて行った
一夜の夢のたかみからずるずるとくずれながら
下って行く落差を軽やかに飛んで
奈落の底の大地をまたいで
やっぱり行ってしまったのだ
( 「誰もいない風景」 冒頭)
(1/10筆者註:埋田昇二氏は2020年8月26日ご逝去されました)
☆『橋』160(栃木市・草薙定)
従前、木原孝一繋がりで言えば、『橋』の表紙には木原の詩を英訳したものが毎回掲載されている。第四回研究会で講師に呼ばれた木原の「人と人との間に橋を架けることこそ、私達が生まれた時から学んできたことだ」というコメントだと、野澤俊雄の巻頭エッセイに書かれている。
☆『飾画』124(弘前市・代表・内海康也・編集・一戸恵多)
誌名は「かざりえ」と読ませる。力量のある詩人が揃っている感があるが、詩では高橋玖未子「サイドライン」が、【だが/一度刻んだ人生の痕跡は/消しても消さなくとも/もうこの身から消えることはない/サイドラインのようなものが/記憶の澱の中で引かれ続けている】と結ばれ、本にサイドラインを引いてしまう描写が、人生の痕跡にスライドしていくのは見事。永瀬清子の論考や、一戸の詩篇「星支度」にも注目した。
☆『環』168(名古屋市・若山紀子)
中日詩人会会長でもある若山主宰の同人誌。まず上杉孝行の表紙絵が素敵だ。同人は現在7名。今回は藁科眞魚の「僕が飛んだ日」の終行【僕は橋の欄干に足をかけて一気に飛んだ】が実に不思議な余韻を残した。現実と非現実の境界が曖昧にされ、レンズの中で揺らいでいるようだ。
☆『銀河詩手帖』300・301(大阪市・近藤摩耶)
近藤が創始者の東淵修や、詩誌の歴史を振り返っている。1968年から続くこの詩誌のことがよく分かってよい。長く発行し続けている詩誌は少なくとも年に1回くらいはこのように詩誌の歩みを記してもらえると、初めて読む読者にも伝わるものは大きい。地方色を積極的に受容し、「けっして、この土を、大地をわすれたことはない、この人々の息吹の鼓動の音を、ききのがしたことはない」という東の言葉を再度、噛みしめたい。
☆『三重詩人』250(多気郡・吉川伸幸)
創刊70周年記念の特集が組まれている。吉川や伊藤眞司がこの70年の詩誌の歩みをエッセイとして記述しており、四日市公害問題や芦浜原発建設反対運動など、平和・自由・民主に立脚した社会派的な紙面構成の伝統がよく分かる。
詩では見開き2頁に収められた吉川の「光の墓標」がよかった。
年老いた樹が倒れると
その姿に沿って
森の中には
一筋の光が射し
倒れた樹の肌を照らす
落ち葉が被せられ
樹は埋葬される
樹の姿が見えなくなった後も
光が跡を暖めている
残る光が樹の墓標となる (光の墓標 冒頭)
樹木が枯れて横たわり、そこにできた光の道に沿って、新たな樹木が生えてくる。鬱蒼とした森のイメージと生命力に満ちた樹の輝き。対比されるものの中に自然や人の輪廻が浮かび上がる。
☆『兆』187(高知市・林嗣夫)
巻頭に置かれた石川逸子の『正田篠枝と「短歌至上」のひとたち』がA5版2段組みで11頁越えの力作。舞台は被爆した正田篠枝がその惨状を詠んだ38首を抱えて1946年夏、軽井沢に疎開していた歌人杉浦翠子を訪ねるところから始まる。翠子を取り巻く福沢諭吉、茂吉、白秋、釈迢空。そしてアララギとの確執が描かれる。林のエッセイ「読んでもらえる、ということ」は池上彰の新聞に対する文章を詩に当て嵌め、鋭く指摘する。
☆『アリゼ』198(尼崎市・以倉紘平)
同人31名の大所帯。以倉の「ナナカマドの炎」は20数年ぶりに会った知人が以倉の詩の〈かまどの炎〉を〈ななかまどの炎〉と錯覚して挨拶。その錯覚こそが新たな詩ではないかという内容の詩篇。
ななかまどはよい木炭を作るには7回は竈に入れるということから命名され、北海道では街路でよく見かける樹である。
☆『詩と眞實』855(熊本市・今村有成)
私が生まれる1年以上前の昭和23年11月創刊。詩、小説、随筆を掲載していて文学志向の長い伝統を感じさせ、尚且つ熊本という地方都市が発信地であるところが凄い。千号も是非、達成して欲しい。
*文中、敬称は省略させていただきました。
*改行の/や//マークは見易いようになるべく展開しております。
*『詩と思想』2020年11月号詩誌評のアーカイブです。
*12月号アーカイブUPは2021年1月20日ころとなります。