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越える。

私は幼い頃から吃音という発話障害と共に生きてきた。
今でこそそんなに周りに気にさせることもない程までに症状も落ち着いたが、全く出ないわけでもない。
幼少期はどもるだけではなく体を引っ叩いたり抓ったりして痛みを与えないと言葉を発することすらできなかった。

大多数が当たり前にできることができないと、周りは「異常・異質」として捉える。
「障害は個性」と周りが認識してくれて揶揄われることがなければ良かったが、子供達は素直で無自覚に残酷ゆえに思い出すと胸が締め付けられるような経験も与えられた。それにより私には個性ではなく劣等感として深く刻まれていった。


話すことに不自由さを感じない人には、わからないかもしれない。
使いたい言葉で言いたいことを言えない悔しさ。
発言したいタイミングで言葉がつまり飲み込んでしまい、モヤモヤを抱え飲み込んだ言葉が頭から離れず、時間が過ぎても置き去りにされるような感覚。
好きな人の名前がうまく発音できない悲しさ。
人前でのスピーチで何度もつっかえたり言葉が出てこない空白の時間に周囲から向けられる哀れな視線。
——こんなことを毎日必ず味わうと劣等感は強さを増し、まだ見ぬ先のことへも自信をなくしてしまいそうになる。


そうならないように、視点を変えると思わぬ副産物もあるもの。
どうしたら症状が出ないように済むか、出たとしてもどうすれば最大限誤魔化すことができるか、
発音しにくい音はある程度決まっていたから言い換えるための単語や表現などは自然と身についていった。
私なりの工夫を続ける中、成長と共に症状も変わったり、乗り越えたのかと思うくらい全く症状は少しずつ緩和されていった。


ただ、油断していると不意に症状が再発することがある。
厄介なことに改善されたかに思える時に症状が出ると、やっぱり私はダメなんだ、これ以上どうにもならなくて一生こんな思いをするんだ、と絶望感に覆われ築き上げた自信が崩れ地の底に叩きつけられる思いを味わうことになる。
それでも話すことは日常の行為なのでやめるわけにもいかず今までと同じようにどうすれば改善するかを考え直し、訓練をする。
1からやり直し。
しかし0に戻ったわけではない。
改善した時期があったからこそ0が1に、1が2になることを自分自身が知っている。


今から2年ほど前に友人が
「元プロサーファーが障害者と一緒にサーフィンをする活動のドキュメンタリーを撮りに行く」と話すので連れて行ってもらったことがある。
透明度が高く、エメラルド、ターコイズ、コバルトなど様々な色を放つ海には太陽に照らされキラキラ輝く白浜に優しい波が打ち寄せていた。
徐々に波乗りを心待ちにしているのが見て取れる義手、義足、車椅子、脳性麻痺、難聴など個性様々な人達が集まってきた。
彼らにサーフィンを教えるのは元プロサーファーや地元のサーファー達で、安全は確保するが必要以上に手出しはしない。
皆んな自力で波に乗り、自力で障害を越える。
世間一般でいうところの「障害者」であるが波に乗る姿に「障害」という言葉は跳ね返される。

私をその場に連れて行ってくれた友人はサーフィンの個人レッスンを数回受けているが水への恐怖心と運動神経の悪さでまだ立てないのだと話してくれた。
彼は五体満足だが、彼には彼の超えなければいけないハードル(障害)が用意されているようだ。

そう。みんな、それぞれの障害を乗り越えるのがスポーツだ。


その日は私も乗り方を教わり、ロングボードで波乗りを楽しんだ。慣れてきたところでボードの上に座りゆらゆらと波に揺られて景色を楽しんでいたところに義足のサーファーが私に話しかけてきた。
「楽しいでしょ?絶対もっと楽しくなるから続けなよ!私、今度はショートボード乗れるようになりたいんだー」
ただただ自然と一体になる気持ち良さと、また練習して新たな課題と障害を乗り越えていくという過程が楽しみなのだということが伝わってくる。


私はこれまでを振り返ってみると、どうだっただろうか。
吃音という障害の恥ずかしさから、それを克服したくて必死だった。治ったと思ってはまた症状が現れて自分に幻滅、を繰り返していた。
恐らく私は一度も自分を受け入れたことがなかったのだと思う。
治っても治らなくても今の自分自身を受け入れて前進すること、それが成長であり、少なくとも挑戦できることには感謝しないといけない。

世の中は数え切れないくらいに障害だらけで日々私たちはそれに触れている。
「障害」の定義をかなり広義にしてしまえば障害を持たない人は恐らくいない。
「健常、障害」ではなく、「多数、少数」ただそれだけ。
そして私のように障害で必要以上に特別視をして周りと境界線を引くのは悲しいことに自分自身であることがある。

視覚障害者と介添人が協力してプレーするブラインドゴルフというものがあることをその後に知った。
介添人のサポートを受けるにしても競技の上でプレーヤーにとっての障害は視覚ではなく、健常者と同じように技術やメンタルなのだろう。
そして2人で障害を共有し、お互いを認め合い、理解し、補い、高めていく心の共同作業はスポーツの枠さえも越える。

その姿はいつも人の心を昂らせ、潤す。


きっとこれからも新しいスポーツが生まれてくるだろう。それは今は無理だと思っている何かかもしれない。
ただ、スポーツはそれぞれの障害を乗り越える軌跡の連続である。

固定概念を外れた先に、まだまだ私達の可能性を試されるものが待っているだろう。


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