自分の行動による失敗からしか学べない?
自分が行動して、失敗したこと、学んだことを誰かに伝えようとする。それはその失敗を経験した自分だから言えることであり、相手に同じ重みを持って伝える事はとても難しい。ほーら、言った通りだったでしょとこちらは思うかもしれないが、相手にとっては自分の行動からしか身をもって学べないのではないか。「賢人は過去に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があるけれども、私も含め、人は皆多かれ少なかれ愚者なのではないかと思う。
そんな事をぼんやり考えていた時に、「答えのない世界を生きる」(小坂井敏晶著)に納得の記述があったので、抜粋してみる。
《以下引用》
我が子を失って悲嘆にくれる若い母の物語が仏教にある。
「赤ん坊を生き返らせて欲しい」母親は会う人ごとに訴えていた。人々は同情し、「ガウダマ・シッタールダと言う高僧に頼めば、奇跡を起こしてくれるかもしれない」と勧める。気を取り直した母親は、死んだ子を抱いて釈迦に会いに行く。「それは気の毒な話だ。赤ん坊を生き返らせてあげよう。村へ帰って芥子の実を2、3粒もらってきなさい」彼女は喜んで走り去ろうとする。その時、釈迦は付け加える。「正しい芥子粒は、死者を1度も出したことのない家からもらって来なければならない。」半狂乱の母親にその心は計り知れない。
村にとって返した彼女に、人々は喜んで芥子粒を差し出す。だが、第二の条件に対しては、「とんでもない。家では父や母だけでなく、娘もなくしている」そんな答えしか返ってこない。最初のうちは希望を捨てずに訪ね歩くが、家から家を駆け巡るうちに釈迦の言葉の意味がわかってきた。「生きとし生けるものは、いつか必ず死ぬ。」ほとんど村を回った頃には狂乱が消え去り、心の平安を取り戻したと言う。
この逸話には重要な教訓が3つあり、(1)悟った後では、こんな当たり前のことが、どうしてわからなかったのかと当人を疑うほど、答えは自明である。(2)単に頭で考えるだけでは、答えに到達できない。実際に体を動かし、積極的に努力して初めて悟りが開く。そして最も大切な点、(3)求める救い、つまりこの復活を願う心が正しく問題を生んでいた。
答えこそが問題だった。無理な解決を諦めたとき、同時に苦悩が消え、救われる。昔の出した謎解きが袋小路から母親連れ出し、解放する。前の後半の同じ論理の仕組みだ。
《以上引用終わり》
論理だけでは、人はわからない。論理と感情。いや、感情で人は動く。相手に論理を受け入れる準備ができているのか、感情面でどんなサポートが必要なのか、なんと言葉をかけたらいいのか。
失敗は若いうちに沢山積んだほうがよく、行動のトライの試行回数が多い人が、どんどん成長していくのだろう。行動をどんどん重ねる事で、思考は研ぎ澄まされてきて、自分の置かれている状況も少し引いて見れるようになっていく。早めに行動&学びのサイクルを回すに越した事はないだろう。自分もそうしていこう、行動を恐れないようにしようと思った。
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