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力の代償

小池誠は、決して特別な男ではなかった。普通のサラリーマンで、仕事もプライベートもどこか平凡だった。特別に優れた能力があるわけでもなく、目立つこともなく、淡々と過ごしていた。毎日同じ時間に起き、電車に揺られ、同じルーチンで働き、帰る。その生活が、誠にとっては安定していた。

だが、ある晩、誠の生活は突然崩れ去る。

その日、家に帰ると、玄関の前に異常な熱気を感じた。なんだろう、と疑問に思いながら扉を開けると、家の中が煙で満ちていた。瞬時に火事だと分かった。火の手はすでにリビングルームから台所にまで及んでおり、家の中に残された時間はほとんどない。

驚きと恐怖が誠を包み込んだ。逃げるべきだと思った。だが、目の前に小さな声が響いた。「お母さん、助けて!」声の主は、まだ幼い息子の翔太だった。翔太はリビングの中でパニックになり、動けずにいる。

「翔太!」誠は叫びながら、すぐにリビングに向かおうとした。しかし、家の構造はすでに煙で真っ白になり、足元も不安定で視界も遮られていた。恐怖と混乱の中で、誠は体が動かなくなりかけていた。

だが、その時、不思議なことが起きた。

誠の中に、どこから湧いてきたのか分からない力が溢れてきた。体中に電流が走るような感覚があり、気づけばリビングルームに足を踏み入れていた。息子を抱き上げ、そのまま火の中を駆け抜ける。煙にむせながらも、何とか玄関に到達し、外へと飛び出した。

その瞬間、誠はまるで映画のヒーローになったような感覚を覚えた。普段では考えられないような力が、今、確かに自分の中にあった。それも、何の前触れもなく、ただ「必要だから」という理由だけで。

その後、消防車が到着し、火事はようやく収まった。誠と翔太は無事だったが、家は全焼し、全てを失った。それでも、翔太が無事だったことが何よりの幸せだと、誠は胸を撫で下ろした。

だが、火事が収まった後の誠には、奇妙な変化が起きていた。

それからというもの、誠はその「火事場の馬鹿力」を自分の体で感じることができた。最初は信じられなかったが、どんな困難な状況でも、普段の自分では到底できないような力を発揮できるのだ。例えば、重い荷物を運ばなければならないとき、仕事の問題を解決しなければならないとき、どんな小さなことでも、何かに追い込まれると、その力が湧いてくるのだ。

そして、誠は次第にその力を恐れるようになった。

ある日、会社のビルで、突然の停電が起きた。社員たちはパニックになり、動けなくなっていた。誰もが困っている中、誠は一人、無意識のうちに非常階段を駆け上がり、ビルの頂上にたどり着いた。自分でも信じられないほどの速さで、階段を駆け上がる自分を見て、誠は驚愕した。

しかし、その時、彼は気づく。

「この力が、いつか自分を壊してしまう」と。

その力は、どこか狂気を孕んでいた。普段は抑えられていた誠の内なる欲望や衝動が、危機的な状況で呼び覚まされる。だが、火事場の馬鹿力は、単なる力に過ぎなかった。それが何を生み出すのか、その結果を想像できなかった。

ある晩、またもや誠の周りに異常事態が発生した。今度は息子の翔太が事故に遭い、危うく命を落としかけた。誠は迷わずその場に駆けつけ、再びその異常な力を使って翔太を助けることができた。しかし、その瞬間、誠は自分の中で何かが変わるのを感じ取った。

その力が「もう止められない」と。

そして、数ヶ月後、誠は突然姿を消した。誰もが彼を探したが、見つからなかった。彼の周りには、いつも「火事場の馬鹿力」によって助けられた人々がいたが、その力が今や恐怖に変わり、誠自身がそれを制御できなくなっていたことを、誰も知らなかった。

その後、火事場の馬鹿力が人々の間で語り継がれることはあった。しかし、誰もその力を手に入れることはなかった。誠はどこかで静かに過ごしているのだろうか、それともその力に取り憑かれて、どこかで暴走しているのだろうか…。

今でも、誠の姿を見たという人は現れない。

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