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幸せとは?

全人類の根底に「幸せ」と言う分かりやすい単語な割に、掴み所のない言葉があるのではないでしょうか?

人それぞれ違うし、それどころではなく今日を生きる事、生き抜く事だけしか考えられない環境の方もいるでしょう。

僕はこの日本と言うお金を払わなくても安全がある程度確保されている裕福な国にたまたま生まれ落ちただけで、「幸せ」と考えて良いだろう。

千葉市(美浜区)幸町と言うなんとも「幸せ」感ある小さな埋め立て地で小学校まで過ごした。

両親は秀才で育ったが、母親は3歳の時に小児麻痺で左足に障害を持った身体障害者。僕にとって当たり前の事だけど、幼い頃のどこかのタイミングで「普通ではない」ことに気付かされたのだろう。そのタイミングは覚えてない。

真面目で物静かな父親。明るくいつも友達が周りにいて、まるで背負っているハンディキャップと引き換えたかのように友に恵まれていた母親。そんな母親が大好きでした。

7つ上の兄はこれまた秀才。そこがとても尊敬出来た。

家族の中で僕はと言うと特に取り柄のない、いつもゴロゴロしている内気な少年だったと記憶している。本人の記憶では…。

まあざっくり家族構成を言えばこんな感じ。何処にでもある日本の家庭。お金持ちでもないし、貧乏でもない。世の中の事を知らない頃は何処の家もそんなんもんだろうな〜位にしか考えない。

その思考こそ平和な日本に生まれてこそである。

写真は秋田県山本郡三種町森岳の惣三郎沼。そこで見た夕陽と、学校から帰ったら昼寝している母親の横に潜り込み、一緒に昼寝した後の目を覚ました時の夕景と同じ位美しく、その思い出が重なりました。

そう、この時こそが、母親との優しい時間が僕の「幸せ」な時間でした。

と言う事は「幸せ」とは常に実感できるものではない訳で、「◯◯さんを幸せにします。結婚させて下さい」と言うのはおかしいのでやめた方が良いと思う。

「幸せって何?」と聞き返されたら少なくとも僕には答えられない。「ポン酢醤油があるうちさ」なんてフレーズぐらいしか浮かばない。大体、自分の事ですら幸せが何かはっきりしてないのに、自分以外の人の幸せが何かなんて分かったもんじゃない。

これから結婚相手のご両親に挨拶行く方は「幸せ」ってワードは自分を苦しめるだけなので控えた方が良いかも知れません。

小さい時に思っていたのは、楽しい事、嬉しい事がずっと続けば良いなーなんて事ぐらい。今みたいに幼少期から英語だ、ダンスだ、公文だと親が先回りしている家は少なかった。どちらかと言えばうちは教育に力を入れていたけど、僕には響かなかっただけ。

小児喘息で身体の弱いコボウ足君に響くものは小さい時には見当たらず、「めんどくさい」が先に立つ床と身体が引っ付いて離れないゴロゴロしている少年は、自分では何の取り柄もないと言う言葉とは裏腹に沢山の事件を引き起こす。

帝王切開で母親の身体を傷付けて誕生した僕は生まれながらに人を傷付けていたとも知らず、己の思うがままに過ごして行くのでした。

それは「幸せ」だわな。

なにが何だか分からない。ただ「家族」で居るのが幸せで、将来は自営業の社長になり奥さんとずっと一緒にいると言う夢をボヤ〜と描いていたのがこの頃。僕にとっては「家族」が全て。幸せの町と書いて幸町にはそれがありました。

長くは続かないとしても、人はどこかで「幸せ」を求め続けるのだとしたら、「幸せ」が何なのかは人それぞれだけど、考え続けてみようかなと思う。

生まれ育った町は訪れると潮の香りがする家族との思い出がこみ上げて来る場所。また「幸せ」を思い出しに行きたいです。

まだまだ分かってない新参者ですが、1つの大切な表現としてコツコツ積み上げて参ります。