朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(2/27)

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「リン」
母が呼ぶ声がする。
少女は、部屋から玄関に出た。
母親は、緑色の制服に身を固め、大きめの旅行鞄を携えていた。
母は長身で、黒い長髪を後ろで一本に結わいていた。その美形を隠すように、大きめのサングラスをかけていた。
「リン。お母さん、仕事で海外に行くことになったから、しばらく戻らないわ。学校の人が迎えに来るから、それに従って」

「わかった」
リンは16歳だ。もう子供ではない。
同世代に比べては、背は高いほうだ。全体的に細身ではあるが、鍛えているため、しっかりとした筋肉がついていることが見て取れる肢体だ。
白のタンクトップに、モスグリーンの軍パンツを履いている。

少女は韓国で育った。
父の顔は知らない。
母によれば、日本にいるが、死んだかもしれないと言われている。
韓国では、「イ・スヒョン」という名だが、日本での通名は、「真壁玲子」という。
「日本人」の環境のため、周囲の多くは、彼女を基本的に「玲子」と呼んでいる。
母だけが呼ぶ「リン」は中国語読みだと、聞かされていた。母が中国出身なのかは分からない。

時は、1967年(昭和42年)。
日本ではカラーテレビが放送開始するなど、高度経済成長を国民が謳歌していた。
青春ドラマがブームになっていた。
グループサウンズが大ヒットしていた。
ファッションでは、モッズルックが流行。女性の間では、ツィッギーからの影響でミニスカートも爆発的に流行した。

しかし、当の韓国では、状況を異にしていた。
アメリカやヨーロッパの文化はおろか、隣国の日本の文化さえ禁忌とされた。
しかしながら、例外は存在する。
リンは、日本の文化や風俗、流行に非常に詳しかった。日本で放送されている、テレビ、ラジオはすべて見ることができた。新聞は数日遅れ、ファッション雑誌も数カ月遅れでほぼ手に入った。
しかしながら、最先端の服や化粧品は、容易には入手できなかった。

リンは、朝から夜まで「学校」に通った。
午前中は通常の5倍ペースで基礎学力を上げる。
午後には、組織の訓練棟に移動し、格闘技、射撃、暗号解読、日本文化研究に勤しんだ。
9歳から銃を握っているので、射撃は得意だった。

とにかく優秀な成績を上げること。
それしかリンの頭の中にはなかった。否、他の考えもあるが、決して自分の意見や考えは、外に出してはならないと理解していた。
すべては、言いつけに従うこと。そして、その言いつけ以上の成績を上げることが、リンの役目だった。
少しでも反抗すれば、明日は無いと分かっていた。
これまで、消えていった同級生は、多くいる。

(いつか、この世の中を変える)と心の中で秘めていた。
しかし「力」が無ければ、世の中を変えることはできないと分かっていた。
そのためには、「力」を手に入れる必要がある。そのためには、優秀な成績を上げる必要がある。
だからこそ、死に物狂いで、リンは取り組んでいた。
そしてそれは、母の教えでもあった。

その母が旅立つ。
海外にいくという話は、勿論初めてではないが、「無事に帰ってこられるのだろうか」と、リンはいつも危惧していた。

案の定、半年経っても、母はリンのもとには帰ってこなかった。
「学校」の教師たちが、母が日本で殺されたという噂をしているのを立ち聞きした。
リンの心には、怒りと悔しさだけが残された。

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