朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(20/27)

20

次はメアリーの話だ。
メアリー・マキャベリは、戦後「日本人」となり、結婚して、城所千鶴と名を変えていた。

1950年6月に朝鮮戦争が勃発。
1950年8月には、警察予備隊が設立され、実質的な軍が復活した。
1951年9月。サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が調印され、日本は独立国として歩き出した。

1952年7月には、公安調査庁が設置された。
破壊活動防止法の施行と同時に、法務府特別審査局を発展的解消する形で公安調査庁が設置されたのだ。
当初は公安調査庁に、「緊急検束」、「強制捜査」、「雇傭制限」、「政治団体の報告義務」、「解散団体の財産没収」、「煽動文書の保持者の取締り」などの、左翼に対する有効な武器となる強力な権限を付与する予定であった。
同庁の設置には、太平洋戦争後、公職追放されていた特別高等警察、領事館警察(外務省警察)、陸軍中野学校、旧日本軍特務機関、憲兵隊の出身者が参画したとされ、中でも特高警察と領事館警察の出身者が中堅幹部として組織運営を担っていた。

日本の情報機関の復活である。

しかし、7年間は長すぎた。
それ以前に日本から公職追放された諜報専門官たちは、ほぼ消えていた。
活躍の場を失った、旧軍の情報将校たちは、その居場所を海外に求めた。
彼らが選んだのは、南北の緊張が続く朝鮮半島となるのは必然だった。
その後、共産化し、その後、赤軍派のシンパとなる者も大勢いた。
軍事力の強化は、すなわち情報戦の強化だった。
南北朝鮮は、互いにスパイ合戦を強化していくことは自明だった。
北と南は、それぞれ敵国であることはもとより、日本は両国から仮想敵国とされた。

朝鮮戦争が始まるや、そこでメアリーに白羽の矢が立った。
アメリカ人ではあるが、見た目は極東アジア人そのもの。戦後、GHQの秘書官、兼諜報員として勤務をしていたが、婚姻、出産により、第一線を離れていた。
が、しかし。朝鮮戦争後の、アメリカと韓国をつなぐパイプ役、を嘱望されたのだ。
「KCIAの設立に関与せよ」
それがCIA幹部から、メアリーに託された、新たな任務だった。
命令に逆らうことは、できなかった。
1950年8月の事である。

第二次大戦後の韓国の独裁者、朴正煕の歴史もまた、KCIAの歴史といえる。
さらに、戦後の日韓史は、朴正煕との交渉の歴史である。

大韓民国中央情報部。KCIAとの略称からもわかるように、アメリカの息のかかった組織である。
KCIAの成り立ちは、こうだ。
1945年9月、マッカーサーが率いるアメリカ軍が南朝鮮(韓国)に上陸し、ただちに軍政が布かれた。
1948年8月に南朝鮮の軍政期間が終了するまでに、アメリカCIAが、日本を足掛かりとして、朝鮮にも、その触手を伸ばしていった。
アメリカは、日本の単独占領および、朝鮮の南北分断占領という条件を利用し、中国・ソ連を中心とした社会主義諸国への「侵略基地」を手にしたのである。
必然的に、その情報部は、アメリカ主導となっていく。
李承晩政権下で、そのアメリカ傀儡情報部は、力を増していくのである。

大韓民国中央情報部は、1961年、朴正煕によるクーデター成功後に、軍の諜報機関である、対敵諜報部隊のメンバーを中心に設立された。
1961年6月10日に「中央情報部法」が公布され、その後の韓国の歴史においては、憲法にさえ匹敵するような重大な意味を持つ法律をなった。
当時、朴正煕は、永久政権を希求し、政権維持の障害となるものは、人間であれ、国家であれ、排除し、抹殺した。
軍政の主体たちは、彼らの「障害除去手段」として情報部を設置したのである。

KCIAの当初の主な任務は、北朝鮮のスパイの摘発であったが、軍政時代は反政府運動の取締りにも辣腕を発揮した。所在地名から通称「南山」と呼ばれ、国民から恐れられた。
その活動は国外にまで及び、日本で起きた金大中事件では、日本の東声会や山口組系暴力団と共に、児玉誉士夫がKCIAに協力したことで知られる。
こうして、韓国の第二次大戦後の「戦慄の時代」が到来するのである。

そのやり口は、監視、尾行、盗聴、盗撮、色仕掛け、偽造文書の作成、でっちあげ、脅迫、自白強要、誘拐、拉致、拷問、暗殺と手段を問わなかった。
しかし、それらは全て、第二次戦前のアメリカと日本のスパイのやり口を踏襲したに過ぎない。
メアリーも、幼少期から米国CIAの手法を学んできており、当然、そのノウハウをKCIAに教授することになる。

当時、KCIAの取り調べは、苛烈を極めた。
無実を訴えても、取調官は聞く耳を持たない。
罪を認め、ありのままを陳述すると、「お前は誠意が無い」「反抗的だ」と殴打する。
こうして、知らないことも、ありもしないことも、取調官の言うように認めてしまうのである。
さらに中央情報部の手先になることを認めさせる。
老いも若きも、男も、女もだ。
子供さえ、スパイ教育の対象となった。
KCIAは、民間の在日朝鮮人を度々拉致し、韓国人スパイに仕立てた。
一方で北朝鮮は、韓国人や、日本人を拉致し、これまたスパイに仕立てた。

しばらくの沈黙の後、またフランクが話し出す。

「情報機関は、その構成上、情報万能主義に陥り、情報に弄ばれてしまうことがよくあります。
情報部、保安司令部、警察など、情報要員を多く置いていると、自分たち同士の競争になって、新しい情報がなければ、作って報告するしかなくなるのです。
情報職員が、上部の意図を希望事項として読み取り、それに合わせてウソの情報を作り出せば、逆機能が生じます。自殺行為だと知っていても、です。」
神津は、手で首を切るような仕草をした。

「メアリーは、悔恨していたようです。韓国軍政への嫌悪が強かったのです。
自分たちが中心になって作ったKCIAですが、裏切りばかりだった。
自分以外に信じられるものがいない。
そんな世界はまっぴらだと思ったのです。
しかも、そんな韓国の軍政が、長く続くことは考えにくかった。
メアリーは、日本とアメリカと韓国・北朝鮮の懸け橋になることを望んでいたのです。
自身の出自は分からないものの、極東アジア人として、いずれの母国でも、戦争の無い世の中を望んだのです。
しかし米国は、危険な考えとして、それを許しませんでした」

「妹分であり恋人同然、人生最大のパートナーだった千鶴は、あんたを頼っただろうな」
そこで、城所が嫌みたらしく口をはさむ。

「左様。CIAからも、KCIAからも追われる身となったメアリーは、韓国から日本に戻り、そして私の元に来ました。
本国はメアリーの処分を決めました。そしてその上申をしたのも、私です。
私は、メアリーを救ってやれませんでした。後悔してもしきれません」

「1970年5月の事です。メアリーは自決しました。私の前で、青酸カリを飲んで」
神津は、悔しそうに呟いた。
「一瞬でした」
さらに、神津はこうも続けた。

千鶴が死んだ翌年、シルミド事件が起きる。
1971年8月23日に韓国において発生した反乱事件である。韓国の特殊部隊の兵士らが、処遇への不満から反乱を起こし、最終的には韓国軍及び警察によって鎮圧されたというものだ。
そして、この部隊を創設した中心人物の一人が、千鶴だったのである。
最強部隊を作ることで、軍事的にではあるが、南北統一となり、終戦となれば平和が来る。
そう考えて、千鶴は部隊責任者となった。

1968年1月21日に発生した「青瓦台襲撃未遂事件」では、朝鮮人民軍(北朝鮮)第124部隊の31名が38度線を越えて韓国首都ソウル市内に侵入し、大統領官邸(青瓦台)の襲撃を試みて失敗した。
ただ一人捕虜となった北朝鮮の軍人は、襲撃の目標が「朴正煕の暗殺」にあったことを供述。
朴は激怒して、報復措置を取ることを決心した。

朴政権は報復として、直接的な軍事侵攻を検討した。
しかし、直後の1月23日に起こったプエブロ号事件によって、アメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領は、朝鮮半島有事を回避することの選択を迫られた。
当時ベトナム戦争を遂行していたジョンソン政権には、朝鮮で新たな戦端を開く余力はなかった為である。
アメリカの援助が得られなくなり、朴政権も北朝鮮への攻撃を断念せざるを得なかった。

それでも朴政権は、自らもゲリラを使って。北朝鮮主席宮爆破と金日成を暗殺する計画を秘密裏に進め、1968年4月に、専属の特殊部隊である空軍2325戦隊209派遣隊を創設した。
隊は編成年月の「68年4月」からとって「684部隊」というコードネームで呼ばれた。
部隊の創設はKCIAの指示によるものであり、実際の管理運営は空軍が担当した。
北と同じ31名の隊員からなる部隊は、仁川近くの実尾島で過酷な訓練を重ね、北への侵入・金日成殺害の命令が下る日を待った。

ジョンソンに代わってアメリカ大統領になったニクソンは、緊張緩和の一環として1970年7月に在韓米軍の削減を発表した。
すると、1971年4月に北朝鮮が統一会談を提案し、9月に南北赤十字が予備会談を開始、1972年7月には南北共同声明が発表され、8月に赤十字本会談開始と、立て続けに南北融和政策が行われる。

しかしそれが最悪の結果を招く。
1971年に北朝鮮への襲撃計画は撤回、部隊は存在しない事にされた。
機密保持のため隊員が島を出ることは認められず、目的を見失った訓練が中止されることもなかったため、事実上幽閉されたような状態に置かれた隊員らの不満は増大していった。

1971年8月23日、隊員が実尾島を脱出し、乗っ取ったバスでソウルに向かったが、韓国正規軍との銃撃戦になり手榴弾でバスごと自爆した。
生存者は6人だったが全員処刑された。

「そんなことが、あったのか」
城所は大きく溜息を吐いた。
「当時、日本では報道されていません。韓国内でさえ、報道規制がされ、知るものは少ない筈です」

しかし、南北朝鮮は、いまだに統一されていない。
東西ドイツが統一されるまで、そこからさらに20年かかった。
米国による、日本の傀儡政権は、今も続いていると言える。戦後は終わっていないのだ。

「メアリーの望んだ未来は、まだ来ていないのです」静かに神津がつぶやいた。
城所には、違和感があった。
(しかし妻が、自ら望んで朝鮮半島に渡るなど、あり得るだろうか?しかも妻の行動は美談にさえ聞こえる。綺麗すぎる。)
神津の話は、およそ信じられるものではない。
(かつ、なぜ神津は、ここまで饒舌なのだ。筋金入りのスパイのはずなのに…)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?